東京・小石川(現在の東京都文京区本郷4丁目)に存在した松平右京亮(高崎藩)江戸中屋敷の一角で、内村鑑三は生まれました。

 



「内村鑑三は、文久元年二月十三日に生まれた。西暦では、一八六一年三月二十三日であった。生れたところは江戸小石川鳶坂の上、上野国高崎藩主松平右京亮大河内輝声の中屋敷の武士長屋であった。」 (鈴木俊郎『内村鑑三伝 米国留学まで』より)

 
2023年10月3日(火)の夜
 
現在の「富坂上」は、西富坂。内村出生地は、ここではない。内村鑑三が生まれた、高崎藩江戸中屋敷のあった場所を歩いてみました。 資料によっては「鳶坂上」と書いてあるのですが、(鳶坂、富坂、飛坂の表記違いはともかく)まず西富坂と東富坂があり、さらに道路の掛け替えにより東富坂(真砂坂)と旧東富坂が併存する、というややこしい状況でした。
  
江戸時代の古地図を確認したところ、東富坂(真砂坂)の北東部に、高崎藩江戸中屋敷があったとわかります。「右京山」という小さな公園がありますが、これは、内村鑑三の父・宜之が仕えた高崎藩主、大河内松平家につながる地名です(官位「右京亮」に由来)。なお、昭和40年代まで、高崎藩江戸中屋敷の足軽長屋が残っていたそうです(2005年に最後の一軒が解体)。1999年に調査報告書が出ています。
 
「右京山」は、旧高崎藩江戸中屋敷の一角。研究史における内村出生地の謎についてですが、どうやらこれは、内村鑑三自身が日記の中で「江戸小石川鳶坂の上、松平右京亮邸内の武士長屋(今の本郷区真砂町三十番地)」と書いていることが、混乱の原因になっているのだと思います。
  
鈴木俊郎は、この記述を根拠に、古地図と実地調査を踏まえて、現在の東富坂(真砂坂)の道路になっているあたりと結論しています。関口安義は、鈴木の見解をおおむね踏襲しつつ、よくわからない、と書いています。
 
個人的見解としては、内村鑑三が書いた「三十番地」は信頼できないと思います。内村の日記は、彼が六十歳を迎えたときのもの(そもそも、彼の誕生日には諸説あり、本人がよくわかっていない)。生まれたときの記憶も、記録も曖昧だったのでしょう。「鳶坂の上」は、住所ではなく、鳶坂(富坂)の上(高台)の意、「三十番地」はあてにならない。通説より北側だと思います。
 
 
(後日訂正)
現地を歩いた感覚をもとに、さらに資料を読んだ結果、内村鑑三出生地は、
 
・鈴木俊郎説でだいたい合ってる
・「鳶坂の上」=東富坂(真砂坂)を本郷方面に上っていったあたり(尚美ミュージックカレッジより上)
・旧東富坂より北の区画、番地は三十〜三十二番地ぐらいで誤差があるかも
 
……と、暫定的に報告します。
 
 
※鈴木俊郎・渡辺五六の著作・論考によると、すでに、江戸屋敷の関係者や、その後長屋に住んでいた住民への聞き込み調査が詳細に行われているようです。関係者の多くが鬼籍に入られているであろうことを思えば、今後、これ以上に明確な情報は出てこないのではないかと思います。
 
いずれにせよ、番地・あるいはそれ以上に細かい場所までを特定することに積極的な意義があるかというと、そうは思えません。江戸小石川の都市空間の中、松平右京亮(高崎藩)江戸中屋敷の一角で、内村鑑三は生まれた(右京亮江戸屋敷の南東部のどこか、ということは判明している)ということだけで十分ではないでしょうか。