『鬼滅の刃外伝 三年後に婚約者が死ぬ和巳編』

倉井 香矛哉 

 

 
 現在の上田映劇がある場所には、明治時代から、末廣坐と稱する芝居小屋があつた。里子さんと僕は、屡々、其處へ觀劇に行つた。
 觀劇の後、婚約者である里子さんの家まで送り屆けることが、僕の習慣と成つてゐた。僕の家は、里子さんの家とは少し離れた場所にある。抑も、末廣坐からは方角が逆である。里子さんは、いつも其の事に氣を遣つた。
「和巳さん。私一人で平氣ですよ」
「然し、鬼に喰はれたら取り返しがつかない」
「まァ、──」と、里子さんは笑ふ。「鬼だなんて、先刻のお芝居ぢやあるまいし」
 見上げれば、一番星が瞬いてゐる。里子さんは眞つ直ぐ虚空を見遣り、云つた。
「百年後まで、ずつと一緒に居て下さいね」
 
 是は、僕が里子さんと過ごした過去の記録である。……
「和巳さん。今夜も送つて下さるのね」
「あァ。だつて鬼にでも襲はれたら、──」と、僕が云ひかけると、里子さんは笑つた。
「また鬼だなんて! 和巳さん、こないだのお芝居が氣に入つたのね」
「あァ、──」 
 僕は半ば上の空だ。里子さんとの日々、其の凡てが、僕の心宮の燈火だ。
 
 里子さんは、僕の心宮の燈火であり、人世の祕鑰を共有すべき相手であつた。
 最初の出逢ひは、雙方の親の薦めに據る。生絲商人であつた僕の父と、蠶絲專門學校の教員であつた里子さんの父親が、個人的に親しかつたのだ。僕らにとつての幸運は、親の薦めた相手が初戀の人に成つた事だ。
 里子さんと出逢つた頃、僕は文學に未練を遺した高等遊民に過ぎなかつた。封建的な社會制度に從屬する事は、當時の僕には苦痛だつた。言語の世界、即ち、想念の支配する世界に、自らの理想を建設しようと志した。
 然し、斯かる淺はかな Ambition は、里子さんと出逢つた瞬間に消失した。 
 僕は、當時未だ一三歳の少女であつた里子さんに戀をした。──其は三年前。僕の父が、生絲貿易の仕事の關係で、横濱の海港へ出向く日のことであつた。外貨獲得の爲、生絲の輸出が國策によつて推進されてゐる事は周知であらう。父の出發に際し、大勢の關係者が仰々しく見送りに立つた。
 列車の休息するプラットフォオムには、生絲商人や製絲場の關係者、蠶絲專門學校の教員は勿論のこと、地元の實業家までもが整然と直立した。當時、煩悶青年の皮を被つてゐた僕は、其の大げさな儀禮的雰圍氣に反撥心を覺えた。實際の處、其の光景は如何にも珍妙であつた。信州人らしい骨太の壯年が、軒竝み借りてきたやうな洋裝をして、萬國旗を風の中に搖らしてゐる樣は、一寸した猿芝居のやうである。だがまもなく、僕は其の顔ぶれの背後に一人の少女の姿を認めた。
 斯かる形式的儀禮は、後から思へば、知人の娘と僕を引き合はせようとする父の計略の一環であつたらしい。然う云つた遠囘しな遣り方は、元來、僕の好まぬ處である。──然し、此の時に限つては、其は最早、何の問題でもなかつた。
 僕は里子さんに戀した。そして、里子さんは僕に戀した。
 世界は根柢から覆り、そして、新天地へと生まれ變はつた。里子さんと出逢ふ以前の僕は、畢竟、内面的な懊惱に囚われがちの刹那的な生活に明け暮れてゐた。破れかぶれの言動は、恰も、壞れた時計のやうであつた。ところが、里子さんと出逢つてからは、人生の指針が再び精確に動き始めた。
 僕は、其まで濫讀に濫讀を重ねてゐた文藝書の類の大半を擲つてしまつた。自我の擴張だとか、自己自身の文壇への進出だとか、然う云つた事には、最早、一切の興味を抱けなくなつた。總てが、里子さんを中心に廻り始めた。里子さんと共に、幸福な生涯を送る事が、唯一の願ひと成つたのだ。
 戀愛は人世の祕鑰であると北村透谷は謂ふ。里子さんと出會つて以後、見慣れた風景も、當たり前の日常も、凡てが其の相貌を變へた。小さい頃から何度も歩いた街道は、里子さんと歩けば天然の Wedding Aisle であつた。里子さんと出掛かけた場所は、一つひとつが二人の生涯の聖蹟と成つた。里子さんと出逢ふ以前の無爲な時間を僕は悔いた。もつと早く出逢つてゐれば、紙上に駄文惡文を書き毆る爲に貴重な青年期を浪費せずに濟んだであらう。最早一日中、里子さんのことしか考へる事が出來なつた。毎夜、僕は白紙のノオトブックに、里子さんの名前を何頁にも亙つて書き綴つた。
 里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、里子、……
 ──君の名は、里子。

 生絲商人の朝は早い。殊に、今朝は製絲工場へ行かねばならない。信州上田の生絲は、横濱港へ運ばれ、英吉利、佛蘭西、阿蘭陀、亞米利加の市場へと輸出せられる。自墮落な書生生活を常としてゐた僕には辛い日々だが、里子さんのことを思うたびに強くなれた。
 商賣は、先づは對人的な關係である。あらゆる商取引には、賣りと買ひとの兩面がある。商品は、人々の生活の需要に応じて、市場と云ふ織絲の中を shuttle のやうに滑つていく。買ひ手である人の sympathy に十分応へる事が、賣り手としての商賣人の第一歩だ。世間知に疎い僕は、當初、往く先々で叱責を受けた。成る程、人間心理は、紙の上で得る智識のやうには單純でない。時には、明白に相手の落ち度に依ると思はれる場面でも頭を下げた。──商賣は、對人的な關係だ。買ひ手の感情を卷き取る事も、僕の職務だ。
 どんなに辛い時でも、里子さんが僕を救つて呉れた。里子さんが、僕の人生の凡てだつた。
 繭倉庫の内部は、初夏の頃にあつて涼しい。生絲の原料と成る生繭は、多窓式の倉庫に保管される。生繭は水分を含む。其を通風によつて乾燥させる工程が、生絲の品質を守る上で重要なのだ。土藏造り五階建ての建物は、まさに信州上田の養蠶業の基幹と云へる。
 内部の急階段を登り乍ら、繭倉庫に眠る蛹の息遣ひを想像した。歐米各國に輸出せられる生絲の原料として、繭玉は整然と貯藏せられてゐる。其の靜かな光景と裏腹に、絲を取るには蒸して殺蛹する過程が必須である。殘酷なやうだが、貨幣經濟に獻げる爲の犠牲だ。製絲業は謂はば、蠶と云ふ生き物の有する最も美しい性質を紡ぎ出す營爲である。十六の少女が美しく着飾るやうに、大人に變はる成長の途中で、商品價値のある生絲に替へてやるのだ。蠶は、自然界では生きていかれぬ。人の手を加へる事が、絶對に必要なのだ。
 人間社會は、其の運行の爲に、常に犠牲を必須としてゐる。──青年期の僕は、其の事實に苦しんだ。古來、人類は、自己の生存の爲に、樣々な植物や動物を食料としてきた。のみならず、生絲のやうな奢侈品に至るまで、人間文化は多くの犠牲の上に建つてゐる。だが、──僕は、兎も角、或る時点で深く考えることを辞めた。認識の放棄ではない。兎にも角にも、生きることだ。明日の考察は、人間存在の動物としての一面に拠っている。生きていくには、喰うしかない。文明開化の理想も、富国強兵の目標も、其の後の話だ。僕は、時代閉塞の現状に對する自らの叛逆の精神を封印した。詩歌や小説の世界に遊んでゐた頃の自己の美的精神を封印した。さうするより外にないのだ。里子さんを中心とする親愛の Ekklesia を建設する爲に、嘗て輕蔑した生活の保守に邁進するしかないのだ。
 
(──階段から足を踏み外して落ちる音。) 
 
「ほら、和巳さんよ」
 と、誰かが噂話をしてゐる。
「可哀想に。また繭倉庫の階段から落ちたんだわ」
「此の頃、里子ちゃんのことで完く上の空だから」
 何とでも言ふが好い。僕は里子さんを愛してゐるのだ。
 本來、繭倉庫と工場の視察は、午前中で終はる筈だつた。だが一先づ、打ち身の治療の爲に、僕は一旦事務所へ向かふことにした。晝間である。屹度誰か居るだらう。──僕は少し氣後れした。未だ仕事が殘つてゐるのに、彼是と詮索されるのは面倒に違ひなかつた。事務所の二階には廣間があり、打ち合はせや慰勞會などの目的に用ゐられてゐる。──登つてみると、工場の監督役の絹二郎がソファに坐つてゐた。
「何だ、工場へ廻らずにサボタージュか」
 と、絹二郎は皮肉を云つた。サボタージュてゐるのは自分の癖に。
 今でこそ不眞面目な工場監督役の絹二郎は、嘗て社會主義に傾倒する青年であつた。『平民新聞』を贖讀し、社會改良を論じた。だが、例の幸徳秋水の事件以來、絹二郎はぱつたりと政治を語る事を辭めた。今では製絲工場の支配者として、勞働階級を使役してゐる。何でも、
「社會主義の理論を応用すれば、工場勞働者を效率的に搾取する事が出來る」
 といふのが、絹二郎の持論であつた。多分にハッタリであらう。然し、現に我々の工場は、信州上田の製絲業の中核を成し、西歐諸國への輸出の一翼を擔つてゐる事は慥かだ。
 今日も、絹次郎は大きめのスーツを着て、不遜な態度でソファに坐してゐる。
「まあ、其處にかけ給へ」
 と、絹次郎は云つた。貴族然たる振舞だが、喰つてゐるのは玉喜屋の饅頭だ。僕は既に部屋の角に坐つてゐたが、長ソファの端に、彼から一寸離れて坐つた。
 絹次郎は片端から饅頭を喰ひつつ、西歐諸國に向けた生絲貿易の概況報告を始めた。
「我が國の生絲の生産量は、既に中國を凌駕してゐる。此の工場の勞働者も、數年後には二千人を超える見込だ。我が國の命運は、まさに是の輸出戰にかかつてゐると云つて好い」
 まるで戰況報告だ。信州の地で飼育せられた蠶の吐く絲が、生絲として商品化せられ、更に海を越えて、西歐諸國で絹織物の素材と成る。其は、當地の上流階級の奢侈品として、ドレスや裝飾品として取引せられる。其の見返りとして、我が國に莫大な外貨が轉がり込むと云ふわけである。僕は、伊藤博文の筆による「富國有養蠶(富國は養蠶に有り)」の標語を聯想した。
 其にしても、絹次郎の報告は長い。僕は、繭倉庫の階段から落ちた時の打ち身の痛むのを感じだした。出來る事なら、今日は誰にも會ひ度くなかつた。僕は無意識の内に、頬の傷を何度も觸つた。
 絹次郎は、僕の顏を一瞥したなり、目を合はさずに云つた。
「何だ、里子さんと痴話喧嘩か?」
「違ふ!」と、僕は直ちに否定した。里子さんとは、喧嘩した事など一度もない。何故と云つて、僕らは喧嘩する理由がないほど、深く愛し合つてゐるからだ。僕は、絹次郎の失禮な物言ひに、すぐさま反論しやうと試みた。だが絹次郎は、そんな僕の内部の動搖を讀み取つたかの如く、フフンと嘲笑つた。眞個に「フフン」と音に出して嗤つたのだ。そして、機械のやうな無表情で呟いた。
「女が語る永遠の愛など、所詮三年で醒める」
 僕は呆氣にとられた儘、絹次郎の表情を伺はうとした。が、間もなく、其は無駄な事と了解した。揶揄われてゐるのだ。女を知らぬ絹次郎に、僕は因縁をつけられてゐるのだ。まつ度く。──時間を無駄には出來ない。僕はソファから立ち上がつて、事務所へ來た當初の目的の通り、藥箱の入つてゐる戸棚を開けようとした。
 すると、絹次郎は同じ言葉を繰り返した。
「女が語る永遠の愛など、所詮三年で醒める」
 僕は戸棚の前で立ち止まつて、絹次郎の方を見た。然し相變はらず、奴は相手の目を見ようとしない。そして、只ぼんやりと虚空を見つめるやうな眼差しで、獨り言のやうに彼は云つた。
「哀れな生絲商人よ。君は今に、女性の自我に飜弄される事に成るだらう」
「どう云ふことだ?」と、僕は眞意を伺はうとした。女性の自我? ──其は、僕自身の認めるものだ。實に、世界の半分は女性の占める處である。即ち、女性の自我を解放する事は、近代の開明的な風潮に適つてゐるに相違ない。だが、絹次郎は、更に言葉を繼いだ。
「君は畢竟、里子さんを理想化してゐるだけだ。一人の人格として見てゐるのではない。そして、相手も亦、君を一人の人格とは見てゐないらしい。戀に戀するとは、此の事だ。二人竝んで歩いてゐても、お互ひの間には、──」と、絹次郎は言葉を切り、更に續けた。「お互ひの間には、海のやうな距離がある」
「默れ!」と、僕は思はず叫んで了つた。何だ此奴は? 他者の内面を覗くかのやうに、決めつけの刄で喋るとは、不愉快だ。「絹次郎、お前の傲慢な態度には、度々幻滅してきた處だ。然し、今日と云ふ今日は、──」
 ところが、僕の言葉は、絹次郎の高笑ひに遮られた。絹次郎は侮蔑した聲で言つた。
「傲慢な態度! ──和巳君。問ふべきは、女性を理想化する君の精神の傲慢だ」
 そして、彼は預言者めいた聲色に斯う宣告した。
「三年後には、君の戀の物語は終はつてゐる」
「莫迦な……」と、僕は反論しやうとした。だが、突然の宣告に怖氣づいた儘、暫時言葉を繼げずに了つた。絹次郎は云ふ。
「哀れな生絲商人よ。三年後には、君の戀の物語は屹度終はる。然も其は、女性を理想化する君自身の傲慢な精神が、彼女を殺すのと同義だ」
 のみならず、絹次郎は、最後に斯う附け加へた。
「君は其の時、里子さんの父親に毆られるね」
「出鱈目はもう辭めろ!」
 と、僕は半ば狂亂ぢみた聲をあげた。出鱈目だ。絹次郎の言葉に根據はない。僕は一刻も早く其の場を立ち去り度い氣持に支配せられた。僕は、戸棚の藥箱から塗り藥を取り出すと、即坐に事務所を出た。
 
 ──不愉快だ。
 快晴の空が、無性に虚しい。斯樣な短い時間で、人を此處まで不快にするとは、絹次郎は不愉快言葉の名人だ。是から工場へ戻ると云ふのに、彼の言葉が心にべつたり沁みついてゐる。
 ──まァ好いさ。
 と、僕は兔に角前を向ひて、不愉快な感情を己の内から盡く追ひ出さうとした。先づは工場の視察だ。自分のやるべき事をやる。來月には横濱行きが決まつてゐる。僕の人生は前途洋々だ。今は絹次郎に嫌味を言はれようとも、其は一時の事だ。今囘の横濱行きが首尾よく行けば、是迄の輸出先に加へて、歐州のカリオストロ公國と新たに生絲貿易の契約を結ぶことに成る。然うだ。──僕は俄然、勇敢な氣持に成つた。カリオストロ公國は小國だが、實に三五〇年に亙つて歐州貴族階級に影響力を保持して來た。無事に契約が成立すれば、カリオストロ大公家の莫大な財産が、我が國の國庫に流れ込むことに成る。さうすれば、最早、僕の人生に敵など居ない。今に見ていろ。目の前の小さな障碍など、後でまとめて始末して了えば好い。日本帝國萬歳、カリオストロ公國萬歳。
 
 
第二部 千曲川の納涼船
 
 信州は日本の屋根。其の清淨な大氣と水、夏期にも過ごし易い氣候に因つて、近年は避暑地としても好まれる。
 古來、山は不思議な魅力で人々を招き寄せた。舊約時代の預言者然り、西藏の覺者然り。我が國に於いても、山嶽信仰や天狗の傳説は枚舉に暇がない。山は亦、天上より降り注ぐ雨水を集め、生命を育む川を造つた。人類文明の發祥は、常に河川と共に有る。メソポタミアにはティグリスとユーフラテス、エジプトにはナイル川、支那には揚子江が流れ、人々の生活を潤した。原初より、川は生命の源泉に外ならない。更に云へば、人間社會の總ては、文物や言葉、慣習の絲が絡み合ひ、さながら川の流れのやうに、或いは、長い長い絨毯のやうに、連綿と受け繼がれてきたものである。古くは佛教、儒學の教へ。其許りではない。上田の産業を支へる養蠶は、中國大陸より傳來した。
 人と人との絆も同樣、上流から下流へと水の流るる如く、空の鳥に運ばれた植物の種子が遠方の地に芽を出す如く、運命と偶然の最中で出會ひ、實を結ぶのであらう。
 ──前置きは好い。今日は、横濱行きを目前にして、里子さんと一緒に千曲川を船で下るのだ。
 奧秩父の甲武信ヶ岳を源流とする千曲川は、信州の地を潤し、北越の日本海へと流れ込む。古來、萬葉集をはじめ、數多くの文藝の題材ともなつてきた。近年では、島崎藤村の詩が有名である。信州上田および周邊地域の郷愁を誘ふ風景の一つである。
 川下りの舟に乘るには、例に依つて、先づ蟹澤へ向かふ。其處から飯山までの舟が出てゐる。藤村が「風變りな屋形造り」と書いた通りの、荷積みと旅客を兼ねた舟だ。船内は廣くないが、僕の横濱行きを祝して貸切にして貰つた。客は、里子さんと僕の二人だけだ。非日常の體驗に、里子さんは、平生よりも心なしか快濶であつた。
 遠くに志賀高原が見える。里子さんは、川べりの風景を見渡し乍ら、色々の事を話し出した。
「和巳さん。私、こないだ父の學校で、蠶の幼蟲を扱つたの。和巳さんは蠶に觸れた事があつて?」
「あァ、──」と、僕は応へた。「工場で觸れる事があるよ」
 すると、里子さんは屈託のない瞳で僕を凝視め乍ら、一層の笑顏を湛えて云つた。
「蠶つて、まるで小さな縫ひぐるみね。掌の上で桑の葉を食べるの。人を信頼しきつてゐるみたいに。ねえ、和巳さんは蠶が好き?」
「うん、好きだ」
 と答えつつ、僕は、僕の仕事が生絲を作る爲に蠶を殺さねばならぬ宿命にある事を里子さんは知つてゐるだらうかと思つた。否、知らぬ筈はない。里子さんは、蠶絲專門學校の教員の一人娘である。養蠶業の哀しい一面を勿論識つてゐるだらう。
 信州上田の地に官立の蠶絲專門學校が設立せられたのは、數年前、明治四三年のことである。元は農家の副業の域を出なかつた養蠶は、國家による管理體制に編入された。此の事實の背後には、當然の如く、日本帝國政府の對外貿易に向けた思惑が存してゐよう。里子さんと僕の出會ひは、お互ひの戀愛の情を伴ふとは云へ、其のやうな外面的事情を含んでゐる。
 僕は一瞬、自己自身の内部に、里子さんとの關係に一切の邪念はないかと思念した。里子さんとの關係は、純粹に戀愛感情のみに據るものか? 或いは、信州上田の有力者である里子さんの一族に接近するに際して、僕は不純な動機を持つてゐないと云へるのか。
 ──然し、今はいい。そんな事を考へずとも。
 里子さんの笑顏を目にすると、僕は考へる力を失つて了ふ。僕は里子さんが好きだ。今は、其だけで十分だ。
 
 二人を載せた舟は、千曲川の水面を北へ北へと進んでいく。里子さんは、學校で習つてゐる事や、日常の事、樣々な事を話して呉れた。──女性の成長は早い。十三歳の少女は、もう立派な大人に見える。だが、學校生活の些事を快濶に話す姿は、矢張り何處か幼い。無論、僕は大人であり、里子さんとは結婚を堅く誓つた仲である。里子さんの事を一人の女性として尊重しなければならない。
 里子さんは、いつか生絲工場で働き度いと云ふ理想を語つて呉れた。
「十六歳に成つたら、私、富岡の製絲工場へ勉強に行きたいの」
「富岡へ?」
「ええ、母も學んだところよ。私、富岡製絲場へ行くことが、子どもの頃からずつと夢なの」
 富岡製絲場と云へば、日本で最初の官營製絲工場の事だ。明治期日本の生絲の生産、及び、工員の育成に於て、富岡製絲場の貢獻は計り知れない。とは云へ、時代は變はつた。富岡製絲場は民營化され、經營は三井から原合名會社に移つた。更に、其處で學んだ工員たちが各地に赴任し、其々の場所で經營と人材育成に從事してゐる。最早、富岡へ行かずとも、上田の地で同等の教育を受ける環境は整つてゐる。
 其でも、富岡製絲場には、日本各地から良家の娘が毎年集まつて來る。日本帝國の近代化、──就中、生絲の安定した生産に貢獻した實績、更には、女子に對して特別の教育を施す傳習機關としての一面が、舊武士階級を中心とする女子の憧れの的と成つてゐるのだ。
 里子さんは、青空の向かうを眞直ぐに見つめ乍ら、誓ひを立てるやうに云つた。
「私、母のやうに一人前の工女に成つて、父や、和巳さんの役に立ちたいの。私が工場で生絲を作つて、和巳さんが横濱へ賣りに行けば、私たちは何時までも幸せに暮らせるでせう?」
「何時までも、幸せに?」
「さう。私、おとぎ話の世界みたいに、和巳さんと幸せな結婚がしたいの。其の爲なら、どんな苦難も忍んでみせます」
 何と云ふ、いたいけな理想であらう。眼前に佇む十三歳の少女は、最早、立派な日本女子の模範である。──僕は想つた。聖マリヤの少女時代も亦、里子さんのやうに純潔で、罪を知らぬ美しき存在だつたのであらう。
「さうだな、──」と、僕は頷いて云つた。「里子さんの思ひ描く通りの人生にしよう」
 其の瞬間、里子さんの表情が一段と明るくなつた。
「和巳さん、──」と、里子さんは云つた。「私が富岡製絲場へ行く前に、正式に結婚出來るかしら。近代女性は、十五歳で結婚出來るのでせう?」
「あァ、たしかに民法ではさうなつてゐる」と、僕は応へた。「然し、餘り焦る必要は無いんぢやないか?」と言ひたい處、僕は一寸堪へた。里子さんは、恍惚とした表情で、未來の事を思ひ描いてゐる。彼女は云つた。
「和巳さんと私が結ばれるのは運命なのだから、正式に籍を入れるのは、早ければ早い程良い事だと思ふの」
「さうかな、──」
「ええ、和巳さんと籍を入れれば、一つの家庭で一緒に暮らしたり、門限を氣にしないで遠方へ旅行にも行けるわ。内地だけぢやない。巴里や倫敦、……其に、こないだ話して呉れたカリオストロ公國だつて、とても綺麗な國なのでせう?」
「さう聞いてゐるよ。だが、──」と、僕は里子さんの方を向き直り、含み聞かせるやうに云つた。「結婚を急ぐ氣持ちはわかる。然し、結婚は、二人の事だけでなく、雙方の家の問題でもある。先づはしつかりお互ひのことを知つて、考へる時間が必要ではないかな」
 女學生らしい幼さはあれど、里子さんは一人前の女性だ。聞くべきことを聞き分け、理解する分別がある人に違ひない。僕は、一個の人間として、里子さんと對話がし度い。さう考へてゐたのだ。
 ところが、僕の箴言は、意図したとは異なる作用を彼女に與へた。里子さんは、急に不安げな表情をして、云つた。
「和巳さんは、私の事がお嫌ひなのですか?」
「いや、さうぢやない。さうぢやなくて、──」
 僕は、咄嗟に辯明を強いられた。然し、里子さんは、僕の言葉を遮つて、更に云つた。
「和巳さんは、私に何か不滿があるから、其のやうな事を仰るのですか?」  是には困つた。一人前の人間であると同時に、里子さんは、矢張り一人の女性である。理屈ではなく、結婚の夢を語る自分を承認して欲しかつたのだ。
「里子さん、──」と、僕は云つた。然し、語るべき言葉が、出て來ない。何と云つて辯明したものか、何と云つて彼女に寄り添へば好いか。實の處、僕は、自分の家族や住み込みのお手傳ひさんを除いて、女性と直に接したのは、里子さんが初めてだつた。女性の氣持ちが、僕にはさつぱり判らない。
 里子さんは、默して僕の方を凝視めてゐる。僕の言葉を待つてゐる。僕は内心焦つて了つた。何と云つて辯明したものか、何と云つて、彼女に寄り添へば好いか。思考は、同じ處をぐるぐると廻る。
 考へた末、僕は、凡庸な言葉を一つ發した。
「──濟まない」
 だが、里子さんは、默つて僕を凝視め續けてゐる。「濟まない」の續きを待つてゐるのだ。僕は大いに混亂した。斯樣な時に、如何な言葉を繼げば好いか、僕には皆目判らなかつた。
 査問されてゐるかの如き時間であつた。里子さんの大きな瞳が、僕を見てゐる。船頭の見るとは無しに此方をちらちら見てゐる樣子が、尚更、僕を焦らせた。僕は、最早降伏したやうに、再び里子さんに云つた。
「……濟まない」
 悔しい。此は男子の恥だ。僕には、女心が判らぬ。けれども恥をかくことに就いては、人一倍に敏感であつた。
「…………濟みませんでした」
 氣が附くと、僕は舟の上で、里子さんに土下坐してゐた。此の上は、恥も外聞もあつたものではない。世界で一番大切な女性を不安にさせた僕は、萬死に値する愚か者に外ならなかつた。──濟みませんでした。許してください。
 一瞬の沈默が下りた。軈て、里子さんは、靜かに口を開いた。
 「生殺與奪の權を……他人に握らせては不可ませんよ?」
 僕は驚いて、面を上げた。先刻まで涙を堪へてゐた里子さんが、無理に微かな笑顏を創つて、僕の事を見下ろしてゐる。何と云ふ事だ。僕は、一時の判斷の迷ひから、女性に對し卑屈な態度を採つた。結果、里子さんに餘計な氣を遣はせて了つてゐる。何と云ふ事だ!
「里子さん、──」
 と、僕は即坐に立ち上がり、彼女の許に接近した。無論、正式な婚姻の前だ。指一本觸れるわけには不可ぬ。
「里子さん。僕は君を好きだ!」
「和巳さん……!」
 斯う云う時には、 Straight な表現に限る。僕は、ありったけの気持ちを言葉にして、彼女に伝えた。
「里子さん。凡て、君の思う侭の人生にしよう。僕が全ての責任を負う。君は一切何も心配せずとも好い」
 決して口先許りでない。凡て眞正の言葉であつた。里子さんは、僕の人生の全部である。生涯をかけて愛すべき女性を前に、最早、僕自身の内面から臆病さは消え去つた。僕は告げた。
「準備が整ひ次第、直ぐに結婚しよう。君が望む人生を歩もう。共に、二人で」
 其の刹那、里子さんの表情が、再びぱつと明るくなつた。眞夏のアサガオが咲いたやうに。──綺麗だ。里子さんにならば、此の笑顏にならば、僕は、自分自身の生殺與奪の權を總て預けて了つても構はない。
 心の中に、音樂が鳴り出だした。里子さんは云つた。
「……ねえ、一寸をかしなこと云つても好い?」
  是は──! 僕はすつかり安堵した。是は、里子さんが上機嫌に成つた時のお決まりの口癖である。好かつた。僕も笑つて彼女に応へる。──然う云ふの、大好きだ!
 
♪何處にも出口の無い日々が
 突然に變はりさう
 
 僕も同じこと考へてたんだ。だつて…
 何處にも居場所の無い日々で
 探し續けてゐた 斯樣な人を
 
 變はる
 君と出會へて
 凡てが
 
 初めてのときめきだわ(よ)
 二人だから
 (製絲場の)とびら開けて
 飛び出せるの(よ)
 
 今(今) もう(もう) 二人だから
 
 教へてよ え? 何が好きか
 みすゞ飴!
 僕と同じぢやないか!
 私たちは よく似てるね
 あ! 復揃つた!
 考へてる事 感じてゐる事
 さう 眞個に似てるね
 
 一人 寂しい日々に
 もう お別れしよう
 二人だから
 (繭倉庫の)とびら開けて
 飛び出せるの(よ)
 
 今(今) もう(もう) 二人だから
 
 夕暮れ刻が近附いてゐる。里子さんは云つた。
「和巳さんが、本當に私の事を愛して下さつてゐるなら、絶對に、私の事を不安にさせるやうな事を云つてはダメですよ」
 僕は默つて頷いた。里子さんが、僕の人生の凡てなのだ。凡ては、里子さんの仰せの侭に。是の共依存 Co-dependency の關係こそが、僕自身の思考囘路を短絡せしめ、蠻勇へと驅り立てるのだ。──力が漲る。里子さんとの幸福の爲なら、僕は何でも出來る。然り、里子さんさへ傍にゐれば、僕は、外に何も必要ない。世界は、二人を中心に廻つてゐる。
 逢魔が刻の薄闇は、次第に、舟の周圍を Veil のやうに包み出した。船頭の漕ぐ櫂の音が、一定のリズムで妖しい波紋を落とす。僕の中で、何かが壞れるやうな音がした。
「里子さん、──」と、僕は忘我したやうな心持で語り掛けた。「何時迄も、ずつと一緒だ」
 里子さんは、僕の内面の微妙な變化には氣附かぬ侭、アサガオのやうな明るい笑顏を僕の隣で湛えてゐる。千曲川の風景は、今や、すつかり夜の闇の底へと沈んだ。舟は、まもなく波止場へ着く。今日の日は、里子さんと僕の將來を約束する記念の日に外ならない。
 里子さんこそ、僕の人生の目的だ。日本帝國も、信州上田の繁榮も、里子さんを幸せにする爲の手段に過ぎない。僕は、自己自身の心の中の沼地のやうな空隙に氣附かなかつた。嵐よ、來るなら來い。僕が凡てを統括する。僕たちの人生は、僕たちだけのものなのだ。
 
 ──『北西之街新聞』號外「天皇御危篤」
 ──『上田朝報』號外「天皇崩御。皇太子踐祚。大臣談『新シイ元號ハ、大正デアリマス』」
 
 
第三部 日本男子の貞操
 
「ほら、和巳さんよ」
 と、誰かが噂話をしてゐる。
「可哀想に。波止場で滑つて千曲川に落ちたんですつて」
「大正元年一の莫迦男ね。あんなんで本當に信州上田の生絲産業を支へられるのかしら」
 何とでも言ふが好い。日が暮れて足元が見えなかつただけだ。

 上田市内には、徳川時代より、上田城下に樣々の商家が軒を連ねてきた。本町、原町一番街、上田天滿宮に通ずる天神商店街、松尾町商店街、海野町商店街。……能く晴れた日には、のんびりと散歩などに興ずるのも心地好い。
 横濱行きは一週間後に迫つてゐた。此處は一つ、信州の澄み切つた空氣を身體一杯吸ひ込んで、歐州のbuyer相手に暴れてきてやらう。──今囘の商談相手は、カリオストロ公國の王室御雇ひ業者である。里子さんとの結婚生活の爲にも、今囘の商談は成功させたい。
 商店街の眞直ぐな道は、夏の終はりの入道雲へと通じてゐる。まるで、僕と里子さんの幸福な人生を祝福するかのやうではないか。──やるぞ! 屹度ラピュタを見つけてやる。因にラピュタと云ふのは、『ガリヴァー旅行記』に出て來る空に浮いてゐる島のことだ。やる氣が滿ちると、何故か、此の臺詞が口を突いて出るのだ。──処で。僕は、里子さんが舟の上で言つてゐた話を思ひ出した。
『和巳さん。私、まだ言つてゐない事があるの。私の家に、古い祕密の名前があつて、是の組紐を受け繼ぐ時、其の名前も私繼いだの』
 里子さんは、一度伏し目がちに成つた。そして、再び言葉を繼いだ。
『私の繼いだ名は、真田、……真田里子』
『真田、里子……!!』
 と、僕は驚愕した。──真田。信州上田の地で、此の名字を聞いて恐れをののかないものは無い。里子さんは續けた。
『私の家は、今は陣内家を名乘つてゐますけれど、其の源流は、天正一三年八月二日、徳川の精鋭七千を相手にわづか二千の兵力で戰つた真田一族につながつてゐるの。戰に勝利したとは云へ、朝廷の定めた將軍家と一度刄を交へた過去を恥ぢた先祖は、名字を改めた』
 初めて聞く話である。里子さんの家族は、國策たる蠶絲業に關はる教職家庭であり、社會的にも要職と云へる。お父樣の立派な人格と、お母樣の堅實なお人柄とに、僕自身、大いに尊敬の念を抱いてゐた。元は僕の家と同樣に生絲商で財を成したと聞いてゐたが、……まさか、真田一族の裔であるとは、まつたく夢にも思はなかつた。 「和巳さん、──」と、里子さんは續けた。『徳川家に叛逆した家の娘である私と、ほんとうに、結婚して呉れますか?』 『結婚して呉れますかつて、……今、突然に然樣なことを云はれても』
 僕は、すつかり Confuse して了つた。里子さんとの關係。男女、否、別個の人間としての壁。財は成せども越えられぬ階級の壁。其の上、今度は歴史が僕を攻め始めた。突然に、然樣なことを云はれても、……返す言葉は一つしか無い。
『里子さん、宜しくお願ひします!!』
 僕が波止場から落ちたのは、其の時なのだ。人生で最高に格好惡い瞬間だつたが、大丈夫だ。僕の自尊心は、然樣なことで死にはしない。夏の夕暮れの千曲川の水は、何とも冷たかつた。無口な船頭は僕を置いていかうとしたので、何とか自分で岸に這ひ上がつた。里子さんはと云へば、然樣な僕の姿を見て、舟上におなかを抱へて笑つてゐる。箸が轉げても可笑しいお年頃なのだ。──好かつた。里子さんが笑顏に成つて呉れるなら、假令火の中水の中だ。七の七倍の囘數にわたつて千曲川の水に落ちるとも、少しも寒くはない。
 最早、真田徳川問題は、水に流れて消え去つた。里子さんは、爾後、家に歸る迄笑ひ續けてゐた。とんだ喜劇もあつたものだ。とは云へ、難しい結婚問題が一瞬に吹き飛んだのは僥倖だ。──と、先日の千曲川納涼船では、最後に斯樣なことが起こつてゐたのである。
 あれから數週間。之の間に先帝が崩御し、改元と成つた。大正時代の始まりだ。もとより、年號なるものが近代人たる僕たちにどれ程の意味を持つだらうか。時の流れは止まらない。明日が來て、今日は昨日と成る。ともあれ、此處は心機一轉、商機を期待したい。
 僕は海野町商店街に差し掛かつた。横濱行きの前に、如何しても喜光堂のずく餠が食べたい。……葛餠(くずもち)ではない。信州では、やる氣がある、能く働く、面倒がらずにやると云ふ意味で「ずく」なる方言を用ゐる。ずく餠は、職人が手間暇かけて作つた上田名物のお菓子の事だ。人間は、此處一番の勝負時に願を懸ける事がある。僕の場合、大事な試驗や仕事上の山場にあつて、喜光堂のずく餠を食べる習慣がある。尚、甘いものなら何でも好いと云ふ譯ではない。喜光堂のずく餠を食べる事で、元氣百倍、勇氣凛々の和巳に成るのだ。
 更に云へば、ずく餠で有名な喜光堂は、里子さんと僕がいつもお芝居を觀に行く末廣坐の直ぐ近所にある。觀劇後、喜光堂でデザアトを戴き乍ら感想を述べ合ふのが、二人きりの大切な時間なのである。横濱行きの前に、ずく餠! 僕は、ずく餠を食べねばならぬ!
 僕は嬉々として店内に這入つた。──そして後悔した。會ひたくない奴が先客だ。
「よう、ハンス王子」
 と、聲を掛けたのは絹次郎である。四人掛けの客席に一人で陣取り、ずく餠をまるで月見團子のやうに積み上げて、恣に平らげてゐる。何たる奢侈であらう。
「絹次郎。お前、──」と、僕が聲を掛けようとした其の途端、皿の上に積み上がつたずく餠は、すつかり貴奴の腹の中に收まつてゐた。何と云ふことだ! 然う云ふ食べ方は、漫畫だけにするべきだ。里子さんと僕の思ひ出のずく餠をモブキャラ扱ひにしやがつて! 
 絹次郎は、ゆつたりした椅子に怠惰に腰掛け、有害な男らしさを周圍に釀し出してゐる。彼は煙草を吸はうとした。やめろ、お菓子の味が臺無しだ。
「絹次郎! 此處は禁煙だぞ」と、僕は咄嗟に靜止した。大正時代に禁煙と云ふ概念はないが、教育的介入が必要だ。幸ひ、絹次郎は直ぐに煙草のやうなものをしまつた。此奴は煙草を嗜まない。伊達で演じてゐるだけだ。
「さて、ハンス王子。王位簒奪の計劃は如何だ?」
 と、絹次郎は意地惡く云つた。ハンス王子? 僕はハンス王子ではないぞ! 絹次郎め、遂に狂つたか。
 絹次郎の一族は、元々、飛騨絲森町に草履屋を營んでゐた。處が一八〇〇年頃、絹次郎の御先祖に當たる繭五郎の家の風呂場から火が出て、郷土の傳統藝能や神事にまつはる記録が凡て燒けて了つたのだ。是が世に謂ふ「繭五郎の大火」、地元では有名な話である。
 絲森町に居られなくなつた繭五郎は、飛騨の地を逃れ、何時しか信州上野に住み着いた。是が、絹次郎の一族の來歴である。──奇妙なのは、絲森の人々の特異な性質だ。眠つてゐる間に魂が入れ替はると證言したり、屡々狐憑きのやうな状態に成つたりするのだ。絹次郎も例に違はず、中學の古城の門をくぐらぬ前から狂氣ぢみた幻想を語るやうに成つた。何でも、東京の女學生と入れ替はつてる?!だとか、彗星が町に墮ちてみんな死ぬだとか、……無論、誰も然樣な與太話を信じない。近年は精神薄弱兒の治療も進んでゐる。
「絹次郎、──」と、僕は云つた。「今日こそは自覺してもらはう。君は幻を見てゐる」
 然し、絹次郎は平然としてゐた。のみならず、突如、斯樣な事を云つた。
「ハンス王子。貴樣の杜撰な計劃は、既に全世界が承知だ」
「だから、僕はハンス王子ぢやない!」
「いや、貴樣はハンス王子だ、──」と、絹次郎は讓らない。「信州上田の姫を手懐け、階級上昇を企む。貴樣にはハンスの名が相応しい」
「何を云ふか。全世界のハンスさんに謝れ」
 と、大聲に掛け合つてゐたら、客席から「やつちよしい!!」と罵聲が飛んだ。見遣れば、其處には、小諸太郎が坐つてゐた。小諸は、母親を支へ乍ら苦學した勇壯な若者で、現在は信州上田の地に蠶種協業組合を設立すべく工作してゐる。だが、女學生に次々と聲を掛ける下品な一面があつた。幸ひ、お育ちの良い武家の娘は引つ掛からない。とは云へ、小諸の押しの強い態度に、蠶絲專門學校の女學生たちは“ドン引き”してゐる。小諸は更に、自分の所爲で女學生たちが怯えてゐる事に氣づかず、「組合の事務棟に女子寮を設置し、自分が寮長に就任して女性の權利を守る!」と豪語してゐる。やれやれだ。鈍感な人間は、自分自身が事件の根本原因と成つてゐる事に氣づかず、自己の外部に、自己以外に敵を措定し、道化芝居を本氣で演ずる。結果、周圍は更に振り囘される。自己愛的な、餘りに自己愛的な Personality。──要するに、小諸は然う云ふ人物であつた。
 何はともあれ、大正初年の信州上田を代表するお騒がせ男子が二人、斯うして同じ店の内に揃つた事に成る。──僕を加へれば三人だ。斯う見えて、昔は三馬鹿トリオなどと呼ばれたものだ。僕は小諸に問ひ掛けた。
「おい、貴樣。一體何時から其處に居たのだ?」
 輕々しく語りかけたが、僕は存外、小諸の事を嫌ひではない。直情的だが、正義感のある男だ。女には弱いが、一定以上に度の過ぎた事は絶對にしない。一言に云ふと莫迦な奴だが、地に足をつけて仕事の出來る逸材である事は慥かだ。斯う云ふ奴は、意外に少ない。
 小諸は、佐幕派の巨魁の如くニヤリと笑ひ、ずく餠を平らげた。其のニヤリ顏を見た瞬間、此奴の押しの強さに起因する數々の惡行を許したくなつて了うのだから困つたものだ。──其にしても、みんなずく餠をばくばく喰ひ過ぎだ。
「やめろ、もう一寸味はへ!」
 然し、絹次郎は嫌味たらしいアルカイック・スマイルで、「フン、所詮菓子だ」と宣つた。作つて呉れた職人さんの眼前で!
「絹次郎、──」と、僕は矛先を變へた。「お前、其で人の心があるのか」
「何が」
「何がつて、菓子職人さんの前で其の言ひ草はない」
 處が、絹次郎は、此方の内心を見透かすやうに、
「どうせ、里子さんとの思ひ出の店を輕く扱はれるのが嫌なのだらう」
 と、痛い所をついた。
「だとしたら如何なのか! 是の店には、里子さんと何度も通つた。お前たちに僕の思ひ出を踏み躙られてたまるか」
 すると、嘲笑つたのは小諸の方だ。
「和巳の旦那が女にご執心とは! まさに大正新時代ですな」
「莫迦野郎。貴樣に云はれたら御終ひだ」
 小諸とは長い附き合ひだが、此奴はトボケるのが巧い。女にご執心と云へば、天上天下に小諸太郎ほどの者は無からう。然し、女、女、女。……女の話をするだけで、絹次郎は忽ち不快さうな表情をした。此奴は、女と云ふ生き物が生理的に苦手なのだ。
「なあ。絹次郎、──」と、僕は敢へて話し掛けた。「お前もそろそろ家庭の建設に邁進しないか?」
「舊時代的だ。然樣な事は」
 絹次郎は、死ぬまで女を排除する人生を邁進すべく、覺悟を固めてゐる。──明治維新以來、此の國の權力は男子が掌握して來た。絹次郎は、此の地方都市の富と權力を掌握するために、男同士の絆の中で自己の權益を擴張してゐる。然し、其ぢや、まるで修道士だ。
「なあ、絹次郎。君も少しは、人間的な感情の交はりを學んだ方が好い」
 と、僕は、何時に無く眞面目に、絹次郎を諭さうとした。結局の處、此奴は、他者との親密な交流を避けてゐるだけではないか。職務上の事で stoic なのは構はない。だが、菓子職人の前で、あんな事を言ひ放つとは。假令、仕事が出來ても、數字が讀めても、人心を掴めなければ、いづれ失敗する。民衆は、感情無き機械では無い。
 然し、絹次郎は素知らぬ風で、
「如何せ、上田の連中は、俺たちの製絲業で喰はせてるんだ」
 と冷淡に言ひ放つた。何と云ふ傲慢! 何と云ふ自己中心性! 製絲業に携はる者とて、信州上田の民衆の協調、當地の豐かな自然と水、食糧がなければ、生活が成り立たないのに。元革命家の絹次郎は、『資本論』を外語で讀んだかもしれないが、肝腎の人間に對する理解が缺けてゐる。
「絹次郎、──」と、僕は尚も続けた。「お前の将来の為の忠告だ。人を人とも思わぬ態度の侭では、何時か、かならず足を踏み外す」
 上手いこと言ってやった。僕は内心、然う思った。然し、絹次郎は然程も気にしていない風で、
「何を云ふか。里子さんとの戀に逆上せて、足を踏み外したのは君だらうに」
 と云つた。途端、店内の客が嗤つた。のみならず、「千曲川、千曲川」と囁き聲が聞こえる。侮辱だ。僕は、里子さんとの戀の物語の主人公だのに、喜劇役者の扱ひで莫迦にしやがつて! 今後の人生を僕は「千曲川」と後ろ指さされ乍ら生きて行かねばならないのか。何と云ふことだ! 其だつたら、ハンス王子と呼ばれる方がよつぽどましだ。
「まつたく、どいつもこいつも莫迦にしやがつて!」
 と、僕はすつかり取り亂した態度を表に示した。……すると、どうしたものか、絹次郎が急に表情を變へて、わかりやすく動搖し始めた。
「ハンス王子。いや、和巳君。──君は、誰だ?」
「誰つて、僕は僕だ。他に誰がゐる?」
「──いや、すまない。何だか急に、君が君でないやうな氣がしたのだ」
「は?」
どうせ揶揄つてゐるのだらう。僕は最早、絹次郎と云ふ人間を信用しない。まつたく、是の製絲工場には變なのしかいない。僕は最早、現世が嫌に成つて來た。來世が有るなら、──無いと信ずるが、假に有るなら、來世は東京の洗煉された社交界に生きたいものだ。
 そしたら、今度は小諸まで、
「二人とも、千曲川で水の洗禮を受けて來たらどうですか。目が醒めますぜ」
 なんてことを云ふ。此奴め、僕が無教會派の信徒である事を知つてゐて、おちよくつて來やがる。
「莫迦野郎! 心を悔い改める方が、餘つ程重要だ!」
 もう厭だ。信州上田は綺麗な街だが、是の製絲工場には莫迦しか居ない。殊に、男が駄目である。武士階級の出の女學生たちは聰明だが、とかく男と云ふ生き物は、一皮むけば全員莫迦だ。如何に經歴は素晴らしくとも、三人寄れば忽ち話題の level が落ちて行く。思ひ返せば、僕は學生時代から、男同士の homo-social な關係性を苦手とした。學業に邁進すべき豫科生の頃から、獨特の風潮を強要される團體生活に辟易としてゐた。上田は小さな街で、是の製絲場の男は變人許りだ。何やら學生時代の厭な出來事を想ひ出す。
 と、あれ此れ思案してゐたら、絹次郎が急に、
「其で、和巳君。君のプラトニック・ラヴは何處まで進展したのだ」などと訊く。
「何故訊く? お前に何の關係もない事だ!」
「如何にも、俺には何にも關係は無い。然し、此處の店内の誰もが聞きたがつてゐる」
「いきなり何だ?! 女だの、惚れただの腫れただの、お前は苦手な話題の筈だろ?!」
 然し、絹次郎は無言の儘、僕をぢつと凝視めてゐる。 
「其で、──」と、絹次郎は、冷酷な表情の儘に訊いた。「君、接吻は濟ませたのか」
「セッ……?! ……は?!」
 衆目の面前で、過度に破廉恥なことを云はないでほしい。日本男子たるもの、貞節は絶對に守らねばならぬ。處が、小諸まで調子を合はせて、
「旦那! まだキッス未經驗なんスか? ひよつとして……キッスが怖いんスか~?」
 などと言ふ始末だ。下衆野郎め。
「莫迦を云え! キッスの怖い筈があるか」と、直ちに僕は反論した。「日本男子たるもの、婚姻前に其のようなことをするものか!」
 すると、絹次郎が嘲りがちに、
「何が日本男子だ。女性に手を出す勇気のないだけじゃないか」
「何だと、貴樣、──」と、一瞬、怒髮天を突き缺けたが、落ち着かう。此の點に關しては、僕にやや有利である。
「絹次郎、──」と、僕は一寸落ち着いて云つた。「僕には里子さんと云ふ心に決めた女性が居て、僕のリアルは充實してゐる」
「だからどうした?」
 と、絹次郎は怪訝な顔をしている。僕は続けた。
「僕が不貞なる行為に走らないのは、畢竟、僕の倫理道徳に拠るものだ。一方、君はそうではない。君たちの語る貞節は、痩せ我慢の貞節に過ぎない! 僕のは違う。僕のは、余裕派の貞節だ!」
「らっちもねえ!」
 今度は、小諸が口を插んだ。此奴も亦、製絲場の女學生達に次々と聲を掛け乍ら、一度たりとも相手にされた事のない、痩せ我慢の童貞だ。
「どうした小諸。悔しかつたら、お前ももつと女心を研究したはうが好いぞ!」
 と、僕は勝ち誇つたやうに宣告した。だが、小諸はまったく意に介さないで、斯様な事を云った。
「女なんて! 毎年全国から女学生達が働きに来るではないですか! 数撃ちゃ当たる、で、わしはチャレンジするだけです!」
 此奴の腦内はどうなつてるんだ。全國のご家庭から預かつてゐる女學生をモノか何かのやうに云ふとは……。是だから男同士の絆と云ふ奴は、厭に成る。僕は半ば輕蔑し乍ら、
「小諸。口を愼め。倫理觀の缺如した言葉が駄々漏れに成つてゐる」
 と、彼を諌めた。
 そしたら、絹次郎が話の腰を折る。
「倫理觀とは! 和巳君。君の口から倫理觀なる言葉を聞かうとはな」
「何だ、絹次郎。──」と、僕は直ちに応酬した。「僕は何時でも、信州上田の産業を支へるべく、自己自身を努めて倫理的たらしめたいと考へてゐるさ」
「フフン、ハンス王子。いや、和巳君。君は自分自身を客觀的に見る事が出來てゐないやうだ」
 と、絹次郎は澄まして云つた。まるで、「あなたとは違ふんです」と言外に匂はせてゐるかのやうだ。本當に厭な奴だ。僕は云つた。
「何だと?! 君はどうなんだ」
「俺か? 無論、君よりは客觀的に見てゐる積りだ。自分自身を。且つ亦、此の街や帝國日本を規定する外部社會の情勢を」
 と、一呼吸置いて、絹次郎は附け加へた。
「君のやうに、里子さんとの戀に溺れ、階級社會の表層で資本家然としてゐる者と一緒にするな」
「うるさい!」と、僕は云つた。「外部世界が何だ! 人間の原動力は心だ! 精神だ! そして、里子さんの存在こそが、僕の精神の核と成るものだ!」
「心靈學の講義なら辭め給へ。其のやうな疑似科學は、俺の人生に必要ない」
 絹次郎は終始落ち着いてゐる。だが、此奴だつて突拍子の無い事を云ふのだ。其に、僕は眞劍だ。僕は云つた。
「絹次郎。君は、人間の心理を輕く見てゐる。外部條件や社會構造だけで説明され得るほど、僕たち人間の心は單純ぢやない」
「さう、だからこそ厄介だ。──」と、絹次郎は云ふ。「一個人の心持ちの爲に大國が亡びる事もある。權威者のお氣持ち表明によつて、ルールや制度を無視した決定がなされたならば、社會は大混亂に陷つて了ふだらう。假令、其が正義感に起因するものであつても」
 絹次郎は、鋭い目つきで僕を看た。彼は更に云ふ。
「だからこそ、外部世界の客觀的な構造を把握し、體制の轉換を志向する事が必須だ! 上部構造の表層で、資本家階級が温情的な慈善活動だのやつた處で、舊來の體制を温存するに終始するだけだ」
「つまり、何が云ひたいんです?」
 と、小諸が口を挾んだ。すると一瞬、絹次郎は小諸を睨むやうに見つめた後、今度は僕の方を見た。其の瞬間、僕は、絹次郎が未だ社會主義を抛棄してゐない事を直感した。彼は云つた。
「和巳君。君が、一人の女性を幸せにする爲にやつてゐる事は、被支配階級からの搾取に他ならない」
「搾取だつて?」と、僕は直ちに反駁した。「絹次郎。言ふに事缺いて Fake News とはゐただけない。好いか、僕らは上流階級の女學生を雇傭し、生活の面倒を見てゐる。其許りか、教育すら施してゐるんだ。彼女たちは、休日には映畫や演劇だつて樂しめる。──」
 僕は自信滿々に告げた。
「僕らの事業は、女權擴張に一役買つてゐる。明治維新で沒落した武士階級の女子に教育と就業の機會を與へ、福利厚生も萬全だ。僕達の事業に搾取など、──」
「笑止千萬!」と、絹次郎が叫んだ。「和巳君。君は何も分かつてない!」
 絹次郎は、明確に激怒してゐる。僕は一寸怯んだ。絹次郎は更に續けた。
「和巳君。君は何も分かつてない。明治維新で沒落した武士階級の娘に教育と就業の機會を與へる? 君は、其の話を小作人の前でも云ふ積もりか?!」
「一寸待て、徒に話を廣げるなよ」
 小作人の話はしていない。僕らの製糸工場では武家を中心に、上流階級の子女を迎えている。いきなり話が飛躍しすぎだ。然し、絹次郎は止まらない。
「和巳君。君は、社会の構造が見えていない。だから、上流階級を相手とする資本家然とした態度で、自分がさも慈善事業のようなことをやっているなどと自惚れることができるんだ。」
「何だと?!」
「胸に手を當てて考へて見ろ。和巳君、君が上流階級を相手に慈善家の顏をしてゐる間にも、貧困層の家の娘は遊郭に賣られていくのだ」
 絹次郎の冷徹な言葉が、ちくりちくりと僕の心を刺す。其にしても、此奴の云ふことは的外れのやうに僕は思つた。
 其處で、
「絹次郎、──」と、僕はゆつくり反撃に出た。「僕らは製絲業に從事してゐるのであつて、遊郭の話は關係ない。四民平等の時代なのだ。貧困層で居るのが厭なら、自助努力で這ひ上がれば好いぢやないか。まづは自助。其が出來ないなら自己責任だ!」
 店内が靜まり返つた。全員、僕の完璧な優勝劣敗の論理に感服してゐるのに違ひ無い。僕はすつかり得意に成つて、演説を續けた。
「亞米利加のグランドキャニオンに柵は無い。落ちる奴は其は自己責任だ。社會に文句を云ふ暇があつたら、自己の魂の修煉を──」
「異議あり!」
 と、今度はあらぬ方向から大聲で。──見遣れば、客席の見知らぬ男共が數名、舉手をして立ち上がつてゐる。
「異議あり! 今の主張に異議あり!」
 好いぢやないか。此でこそ民權派だ。承けて立つぞ。僕は野次の張本人に向かつて云つた。
「やあやあ! 我こそは、信州上田の製絲業の主宰者だ。民衆諸君は何を持つて謀叛を企てるか!」
 僕は、己の正義を完全に信じてゐた。氣持ちが大きくなつてゐたから、普段云はない言葉が口をついて出た。だから、客の男が本氣で怒つてゐる事に氣附かなかつた。
「逃げた方が好いぞ」と、絹次郎の聲がする。其の時には、既に僕の身體は多くの男達の腕の中に毆られてゐた。「外でやつて呉れ」といふ店の人の聲がかすかに聞こえる。最早、意識は朦朧としてゐた。最後に斯樣な言葉が聞こえた。
「上級臣民が自惚れやがつて」
 
 氣が附いた時には、僕は店の牀の上で仰向けに横たわつてゐた。
「不樣だな、──」と、上から誰かの聲がした。絹次郎である。「其の程度で斃れるとは、信州上田の面汚しよ」
 何が起こつたのか、暫くは思ひ出すことが出來なかつた。兔に角、身體中が痛い。……さうだ。僕は絹次郎たちと論爭をしてゐて、他の客に絡まれたのだ。
 店の中を見囘す。小諸は何も意に介さず、相變はらず食べてゐる。大物だ。無論、幸せならOKだ。こつちはとんだ災難だが。
 と、其の時、店の人がぢつと僕を睨みつけてゐるのに氣附いた。
「今日のことはすみません。──」と、僕は謝ろうとした。が、頭が囘らない内に、あちらから罵聲が飛んできた。
「歸つて呉れ」
「あの、はい。すみません」と、必死に辯解しようとするも、言葉が繋がらない。店主は、絹次郎と僕の論爭の件でお怒りなのだらう。「絹次郎が、其の、此奴が生意氣なことを云ひまして。本統に、何とお詫びしたら好いか、……」
 然し、店主は僕を睨みつけた侭、何も云はずにぢつとして居る。其の時、僕は直感した。店主は、絹次郎に對して怒つてゐるのではない。僕に對して怒つてゐるのだ。
 暫し、沈默が降りた。店内には、可也、重苦しい空氣が流れてゐる。──僕はすつかり困惑した。是は、能く判らないものの、話がややこしくなつてゐる。
「濟みませんでした。──」と、僕は今一度、頭を下げた。然し、店主は默つて僕を睨んでゐる。激おこだ。
「申し譯ございません」と、何度か頭を下げた。そしたら、不意に店主の怒號が飛んだ。
「今すぐ歸れ!!」
 再び、店内に沈默が降りた。僕は變はらず頭を下げた。然し、段々と苛立つてきた。最初に無禮な事を云つたのは絹次郎だのに、何故、僕が怒られるんだ?
 チラリと目を舉げると、店主は一寸偏屈さうな素振りで、「歸れ、歸れ」と呟いてゐる。僕は思つた。──さては、店主の方が變はり者だな。  僕は顏を上げ、周圍を一瞥した後、ほんの少しの叛抗を試みた。
「今囘の事は、心からお詫びします。ですが、──」僕は、絹次郎の方を一瞬睨んだ後、云つた。「元はと云へば、惡いのは此奴です。自分が信州上田の民衆を食はせてゐるなどと、自惚れて! 先刻は僕も言葉足らずでしたが、僕の眞意はかうです。上田の民衆が、自助努力で、産業を支へるやうに訓導する事です」
 店主は默つてゐる。聞いてゐるのか、聞いてゐないのか判らない。僕は續けた。
「此の商店街だつて、要するに資本性經濟ではないですか。市場では、利益を出さなければ生き殘れない。僕は、民衆一人ひとりが活力を持ち、努力した者の報われる社會を造りたい」
 視界の陰で、絹次郎が「フフン」と笑つた。斜に構へた態度は平生通りだ。僕は更に續けた。
「經濟成長無くして、國民福祉の増進はない。だから、上田の街に市場原理を、──」
「莫迦野郎!」
 と、いきなり店主が什器を抛げた。僕は驚いて語るのを已めた。牀には、粉々に成つた高さうなお皿が無慘に散らばつた。店主は激怒してゐる。状況は、誰の目にも明らかだ。呑氣にずく餠を食つてゐた小諸ですら、流石に動きを止めた。
「青二才が知つたやうな事を!」と、店主は怒鳴りつつ、然し、論旨はしつかりと云つた。「いいかお前。商売は勝ち負けじゃない。持ちつ持たれつだ。この商店街は支え合ってる。金儲けじゃない。街をつくってんだ。馬鹿もんが! 絹次郎さんの云う事は分かるぞ。嫌味な言い方だが、──本当に嫌味な言ひ方だが、絹次郎さんの事業が上田の人々の仕事を作つてゐるのは事實だらう。其に比べてあんたの自己責任論は酷い! 自分自身の無自覺な暴力性と向き合ひもせずに」
 然し、店主が何を云つてゐるのか、僕には半分も理解出來なかつた。先刻から、自分の信念を一方的にへし折られてばかりだ。何が何だか、皆目意味がわからない。すぐ傍では、絹次郎が復不敵に笑つてゐる。──嫌な奴だ。此奴にだけは負けたくないと僕は思つた。
 だが、僕には最早、何の言葉も思ひ浮かばなかつた。
「濟みませんでした」と、僕は三度謝罪した。店主はそつぽを向ひて、呟くやうに、然しはつきりと云つた。
「あんたは出禁。出入り禁止。たつた今からだ」
 出禁。──身體中を戰慄が走つた。里子さんとの思ひ出の場所から、僕は今、出入り禁止を宣告された。絹次郎が復笑つた。鶏は三度鳴く。僕は、新約聖書に記されてゐるクリストの受難を少しだけ體感したやうな氣がした。
「本統に、申し譯ありませんでした」
 僕は、形式許りの禮節を盡くした積りで、店を後にした。上田の空は今日も青い。虚しい程に青い。
 
 
第四部 挫折
 
「ほら、和巳さんよ」
 と、今日も誰かが噂話をしてゐる。
「可哀想に。自己責任論であのお店出禁ですつて」
「青二才には善い藥ね」
「もう一遍千曲川に落ちて頭を冷やせば好いわ」
「不毛な議論はTwitterだけにしてほしい」
「……一寸、貴方何時代の人?」
 
 街全體が、僕のことを惡く云つてゐるやうな氣がした。そして、其は全然妄想では無かつた。先刻、僕が店を出て、今、商店街を歩いてゐる間にも、僕の出禁の噂は、上田の街を七周半して擴がつた。
 何と云ふ日だ。──僕は、狂をしい程に青い空を呪つた。
 街で出くはす一人ひとりが、僕の惡口を云つてゐる。
「自己責任論」
「自己責任論」
「ジコセキニンロン」
 自己責任論。──話の流れで僕の口から出た言葉が、今や、僕自身を責め始めた。最早、上田の街にゐる限り、僕は自己責任論者として一生責められる。
 其も是も、絹次郎の所爲だ。
 僕は、口車に乘つた自己を恥ぢつつも、他者に責任を轉嫁する事を躊躇しなかつた。彼奴が惡い。彼奴の所爲で。Negativeな言葉が、堰を切つたやうに溢れてくる。
 商店街には今日も人が多い。家族連れ、幸せさうな女學生。凡ての幸福な風景が、今や、僕の神經を逆撫でする。人々がちらと僕を見た。自己責任論、自己責任論。青二才、善い藥だ、と。みんなが、僕の惡口を云つてゐる。商店街の人々が、一人殘らずだ。妄想は、最早論理を輕々と飛躍して、一つの確信へと變はつた。
 青い空へ僕は叫んだ。
「僕の事莫迦だと思つてんだろ?! お前もお前もお前もお前も!!」
 だが、然樣な事をしても無意味だ。商店街の人々は、ますます僕の方を見てクスクス笑つてゐる。云つて了つた言葉は引つ込まない。何をしても、恥の上塗りである。
 帝大出の僕が、如何して斯樣な事に? 腦裏には、ありとあらゆる疑念と憎惡の言葉が浮かんだ。僕は生絲商人として、信州上田の産業に只管奉職する心算でゐた。其なのに、ひよんな事から、里子さんとの思ひ出のお店を出禁になり、延いては町中の笑ひ者とは! 今日と云ふ今日ほど、僕は世界を呪つた事はなかつた。於乎、此の腐敗しきつた世界に墮とされ、此のやうな不樣な經驗をさせられるだけのために、僕は生まれたと云ふのか!
 其の時、僕の心の中で、鬼のやうな、惡靈のやうなものが蠢きはじめた。
 ──何もかも、全部、駄目に成つて了へ。
 ──いや、駄目だ駄目だ。其は不可ない。
 鬼のやうな、惡靈のやうな何かは、僕の心の内を一瞬だけ通り過ぎていつた。僕は、すつかり自己嫌惡に苛まれた。青空の下だと云ふのに、僕の心象風景は眞つ黒に染まつた。
 横濱行きを眞近に控へて、僕の自尊心はすつかりずたずたにされて了つた。だが然し、
 ──分かつてゐるんだ。
 ──僕が惡いと云ふことぐらゐ、分かつてゐるんだ。
 其の儘、無言で歩いた。街の中を端から端まで、重ねて歩いた。けれども、心は晴れない。上田の街を何度往復したのかわからない。氣づけば、周圍は夕刻であつた。今から何をした處で、状況が變はるわけでもないし、心が晴れるわけでもなかつた。
 ──自分の莫迦野郎。
 里子さんに何と云へば好いのだらう。思ひ出のお店を出禁に成るだなんて。とは云ふものの、時間が戻るわけでもないし、吐いた言葉は取り消せないのだ。
 
 
第五部 大正の怪奇?! 横浜の幻智学会を追え
 
 横濱までは峠を越える。最初の官營製絲場が富岡に建てられたのは、信州と比べて地理的に優位にあつたが故である。西南戰爭の戰費調達のために不換紙幣を濫發した明治政府は、當初、鐵道を敷設する餘力を持たなかつた。其の爲、生絲の輸出には水運を利用した。即ち、富岡製絲場から中山道の倉賀野宿に近い烏川の河畔まで陸路で運び、其處から川船に積み替へ、利根川へ出る。途中、關宿から江戸川へ下り、海へ出て、其の儘横濱港へ運んだのだ。
 然し今では、信州から列車を乘り繼いで東京や横濱へ出る事も容易い。切符を買ひ、夜の無限列車に乘り込めば、朝には大都會である。夢を見乍ら列車に搖られる時間が、僕は好きだ。
 以前、里子さんと二人で無限列車に乘つた。青葉の頃、移り變はる車窓の風景を里子さんは愛した。あの日、途中驛で買つた辨當の味を思ひ出す。
 里子さんは、「美味しい、美味しい!」と何度も云つた。辨當を頬張るあの日の里子さんの笑顏は、いまでも判然と腦裏に浮かぶ。
 駄目な自分が、情け無くなつた。
 思ひ出さう。純粹に他者を思ひ遣る心持ちを。
 夜の闇を無限列車は走る。乘客は皆眠つてゐる。僕は、メモ帖に挾んでおいたカリオストロ公國の資料に一寸目を落とした。が、直ぐに其れを懐中にしまつた。
 ──僕も眠ろう。
 明日に成れば、横濱に着く。やるべき仕事は山のやうにある。眠つた方が好い。
 客車の中でまどろみ乍ら、いつそずつと幸せな夢を見てゐたい、と僕は思つた。だが、直ぐに思ひ直した。──僕には、やるべきことがある。信州上田の製絲業を支へなければ、そして、里子さんと幸せに成らなければ。
 無限列車は走る。僕は短い眠りに落ちた。
 
 横濱である。街に關して、今は書くべきことがない。海港の都市は、明治開國後の輸出入の擴大と共に發展した。即ち、生絲の輸出と、産業機械の輸入である。基督教をはじめ、西洋の文物が移入したのも横濱からである。とは云へ、街に關して書くべきことはない。
 此處で仕事をするのが、僕の責務である。
 最早、書生時代のやうな浮ついた氣持ちはない。人生を重ねてゆけば、其なりの經驗をし、其れなりの挫折もする。今の僕には、横濱とて心象風景としての意味を持ちが度い。大事な仕事がある。今は、其を考へる時だ。
 其は其として、大變だ。横濱馬車道通りを歩いてゐる途中、目的地を見失つた。
 今日は、カリオストロ公國の要人と會ふことに成つてゐる。其れ故、指定された建物を目指してゐたが、……肝腎の建物が何処にも見當たらぬ。抑も、案内圖の描き方が何だか變だ。
 暫く案内圖を睨みつけてゐた。と、或る瞬間、違和感の正體に氣が附いた。
 ──此の地圖はをかしい。存在しない建物の名が書いてある。
 圖示されてゐるのは、たしかに横濱港の一帶である。然し、建物の名前がまつたく一致しない。是はどう云ふことだ。
 僕は通りに立ち盡くした侭、案内圖を見つめてゐた。嫌な話を聯想した。「都會人は、地方の者を騙して金品を掠取する」と云ふ噂話。與太話だと思つてゐたが、……
 と、あれ此れ考へ込んでゐる處へ、突然に、聲を掛ける者がある。
「其處に無ければ無いです」
「誰だ」
 僕は瞬時に警戒した。都會人を疑ふ氣持ちはなかつたが、今は一寸疑心暗鬼に成つてゐる。と、聲の主は、何時の間にか僕の背後に居た。
「其處に無ければ無いですねえ」
 聲の主は、無愛想な言葉を繰り返した。振り返つてみると、普通の人のやうだ。何だ。慣れない街で疑ひ深くなつていただけか、と思ひ、僕は其の人に話しかけた。
「今日は大事な商談に來たのですが、待ち合はせの場所が見つかりません」
 すると、其の通りすがりの人は、一寸人間らしい笑みを浮かべた。
「私でお役に立てますかな?」
 然し其の瞬間、僕は何とも云へない違和感を覺えた。のみならず、眞夏だと云ふのに寒氣がした。此の人は、樣子がをかしい。顏は笑つてゐるのに、目が一切笑つてゐない。
「如何かしましたかな?」
 と、其の人は云つた。僕は暫く默つて了つてゐたのである。僕は、「いや、」と少し口籠つた侭、其の人の顏をまじまじと見つめた。普通の人のやうだ、と云ふ最初の印象が、あつと云ふ間に何處かへ行つた。此の人は、何だか、人でないやうな氣がする。
 然し次の瞬間には、其の人は如何にも親切らしく振舞つてみせた。
「もう一區劃先の通りに、貴方が行くべき建物はありませう。赤煉瓦造りの大きな建物です。貴方は、決して迷はず其處へ行き着きます」
「何故僕の行き先を?」
 と、僕は訊ねた。此の人とは、今が初對面の筈。其なのに何故、僕の行くべき場所を識つてゐるのか。
 其の人は笑つて、
「人間の行き先など知れてゐます。貴方のやうに地圖を見乍ら道に迷つてゐる人には、根據もなく斷言して呉れる存在が必要でせう」
 と云つた。何だか不思議な物言ひである。根據はない、と自分で云つてゐるのに、迂闊に信じてしまひさうだ。
「其の建物が、僕の目的地だと云ふのですか?」
「貴方の目的地は、貴方自身がお決めに成るべきですよ。ハハハハ!!」
 と、其の人は亦、奇妙な言葉を云つた。質問した事に答へてゐない。だが今は、他に頼るべき人もゐない。大事な商談が控へてゐるのだ。
 僕は、其の人を睨みつけるやうにして、念押しした。
「好いですか。僕は是から商談です。遲れるわけにはいきません。貴方の言葉を信じて好いのですね?」
 すると、其の人は急に眞面目な顏をして、
「貴方がお決めなさい」
 と、亦同じやうなことを云つた。眞劍なのか、巫山戲てゐるのか、さつぱり判然としない。僕は更に念を押した。
「先を急ぎますから、兔に角僕は行きます。好いですか、嘘だつたら辨償ですよ?」
 僕は、其の人を殘した儘、通りを歩き出した。案内圖は元より役に立たない。半ば破れかぶれだ。大丈夫、若しも間違つてゐたら、早足で戻つて來れば未だ間に合ふ。僕は半ば賭けでもするやうな積りで、一つ向かうの通りまで歩いてみた。
 其の人が云つてゐた建物は、直ぐに見附かつた。赤煉瓦造りの大きな建物だ。時計塔が印象的である。此處に違ひない。さて然し、此處が僕の目指した場所であるかどうかは、入つてみないと判らない。
 建物の入口には立て看板が掲げてある。
 
 ◯口頭發表
 學術博士サドク教授『生絲ヲ代替シ得ル合成纖維ニ關スル研究』
 
 生絲を……代替し得る……合成纖維に關する研究?
 此處だらうか。カリオストロ公國代表と落ち合ふ場所は。
 どうも、違ふ氣がする。
 今囘は、生絲の輸出に就いて話をする事に成つてゐる。合成纖維とは何だ。摸造品のことか? 僕は矢張り、先刻の人に揶揄われたのだ。考へてみれば、明らかに不審である。
 話に聞いてゐた通り、都會人は信用出來ない。先刻の人、未だ彼處に居るだらうか? 若し居たら、文句を云つてやる! と、僕が振り向ひて、元來た道を引き返さうとした瞬間。
 直ぐ後ろに、先刻の人が立つてゐた。
「どうしたのです? 入らないのですか?」
 僕は驚いて、情けなく「うわあ」と音を出した。すると、其の人もわざとらしく「うわあ」と笑つた。何だ此の人は。音もなく近附き、氣が附くと背後にゐる。此の人は、一體何者だ?
「私は通りすがりの者です。貴方が道に迷つてゐたので、此處へ連れて來ました」そして、其の人は云つた。「さあ、何を躊躇ふのです。中へお進み下さい閣下!」
「閣下?!」
 僕は困惑した。誰も彼も、變な呼び名を僕に押し附ける。兔に角、今はカリオストロ公國との商談が第一だ。
「何だかよく判りませんが、──」と、僕は云つた。「僕は大事な商談を控へてゐます。此處は待ち合はせ場所と違ふやうです」
 すると、其の人は急に眞顏に成り、
「カリオストロ公國のことなら忘れなさい。どうせ貴方の商談は決裂します」
 と云つた。何だ? 通りすがりの人の癖に、僕の何を知つてゐるのか。
 其の人は云つた。
「貴方の商談は決裂します。たつた今、決裂しました」
「如何云ふことだ?」と、僕は訪ねた。「決裂したつて、まだ商談は始まつてゐない筈だ」
 すると、其の人は時計臺の方を指差して、
「ご覽ください。今何時でせう?」
 と云つた。今は午前十一時だ。商談は十二時の豫定だから、未だ餘裕はある。
「約束まで一時間ある。──」と、僕は云つた。「今から戻つて待ち合はせ場所を探す。冷やかしはご無用。其では」
 と言ひ殘して、僕は其の人の許から立ち去らうとした。すると、其の人が、
「能くご覽なさい」
 と云ふ。彼の指は、まだ時計臺を眞つ直ぐに指し示してゐる。僕は今一度、時計臺をしつかりと見つめた。午前十一時だ。間違ひない。……いや待てよ、何だか違和感がある。
 然し、違和感の正體が判らない。だが、何かがをかしい。
 時計臺をぢつと見つめた侭、僕は暫く動かなかつた。すると其の人は、答へ合はせする教師のやうな、一寸威壓するやうな態度で云つた。
「お判りいただけたでせうか? 文字盤が、左右反轉してゐるのです!」
「は?」
「つまり、いまは午後一時です!」
 待つて呉れ。横濱に着いてからまだ一時間も經つてゐない。今が午後一時なんて、そんな筈はない。此の人はまた揶揄つてゐるに違ひない。
 然し、其の人は非情なる事實を宣告した。
「貴方が驛前で道に迷つてゐるとき、實は既に十二時を過ぎてゐたのです」
「そんな莫迦な?!」
 と、僕は狼狽した。此の人の云ふ通りなら、僕の時間の感覺が狂つてゐるのか。慌てる僕に、彼は一言多い言葉を放つた。
「初めての場所に來るのでしたら、是非もつと早く到着すべきでしたでせうね」
「こんなの絶對をかしいよ!」
 有り得ない。僕が横濱に着いて間もない時に、既に約束の時刻を過ぎていただと? 幾ら何でも、其はをかしい。時間は、客觀的に單一の速度で進む筈だ。其が物理學の常識の筈だ。だからこそ、時間は時計と云ふ機械で計測可能なのだ。
 然し、其の人は笑つて、
「自己責任、と云ふ言葉をご存知ですか」
 と問ふ。
 ──何だ。此の人は。
 途端に、上田の街で經驗した出來事が腦裏をよぎつた。其の人は續けた。
「時間管理は、すべての事業經營の初歩ですよ。諦めなさい。カリオストロ公國は、他所と契約を結ぶでせう」
 何と云ふことだ。僕は、信州上田の製絲業の爲に、遠路遙々、横濱までやつてきたのだ。其なのに、些細な出來事の爲に完てが臺無しに成つて了つた。完てが。いや、未だ、此の人が嘘を云つてゐる可能性がある。僕は未だ、状況を受け入れる事が出來なかつた。 
 時間はさうかうしてゐる間に過ぎていく。僕の大事な商談はご破産に成つたのか。其とも、すべて此の人の狂言か。然樣な事とは無關係に、太陽は輝いてゐる。
「さア、──」と、其の人は云つた。「今、貴方には決斷が必要です。生絲商人さん」
「何だと!」僕は少し苛立つて、云つた。「決斷とは何だ? 何故、僕が生絲商人だと知つてゐる? 偶然道で出くはしただけなのに!」
 すると、其の人は不敵な笑みを浮かべ、
「和巳さん。すべては我々の計劃の内にあるのです」
 と云つた。
 何故、僕の名前を識つてゐるのか。
 奇妙である。偶然を裝つて出會つたものの、實は僕のあらゆる事を知り盡くしてゐる。然様な感じがする。
「あなたは、──」と、僕は訊ねた。「あなたは一體何者ですか」
「通りすがりの正義の味方、だつたら如何です?」
 其の人は亦、不敵に笑つた。僕はすつかり混亂した。眼前の人物が何を考へてゐるのか、何をしようとしてゐるのか判らない。他者の内面など伺ふ餘地もないが、慥かなことは、横濱の路上で偶然出會つた人物が、僕のことを知悉し、僕の名前を識つてゐる事だ。
 其の人は、まるで預言者然とした表情で云つた。
「和巳さん。今が貴方の決斷の時です。絹絲を捨て、合成纖維に未來を賭けるのです!」
「莫迦な! 上田の産業を全否定するのか。紛ひ物に興味はない!」
 ところが、其の人は餘裕ありげに、
「和巳さん、貴方は何も判つてゐない。──」と云つた。「上田市民の生殺與奪の權を、かよはい蠶に握らせ續ける積りですか? 一旦病害あれば、製絲業など一氣に終はると云ふのに」
「不謹愼なことを云ふな!」
「不謹愼でせうか? 元はと云へば、歐米の富裕層が本邦の製絲業に目をつけたのは、歐州の養蠶が病害によつて潰滅したからでせう? 同じことが日本で起れば、貴方の街の産業は、即時に潰滅ですよ。即時に」
 其はさうだ。其は、慥かにありうべき未來だ。然し、──
 僕は云つた。
「貴樣、立ち話で何だ。不躾ぢやないか!」
「立ち話だからこそ、です。貴方は今、人生の岐路に立つてゐる」
 其の人の澄ました顏が、僕を更に不愉快にした。とは云へ、彼の云ふ言葉は一定の眞實を含んでゐる。僕は、返す言葉を考へ乍らも、すつかり斜陽しきつた未來の上田の街竝を思ひ浮かべずにゐられなかつた。見慣れた商店街も、千曲川の水運も、凡てが寂れ果てた信州上田の街。二一世紀の信州上田市。──だが、
「莫迦野郎!」と、僕は叫んだ。「僕がゐる限り、上田の街が然樣なことに成るものか!」
 自信などない。根據のない言葉だつた。然し、故郷の街が侮辱されたに等しいのだ。言ひ返さないでゐられるものか。
 だいたい、此の人の都會人ぶつた外見や振る舞ひが、一々氣に喰はない。──何だ、横濱人が何だ。今は横濱人だからと云つて、三代前は一般庶民だつたりするんぢやないのか? こちらは信州上田の生絲商人、然も、先祖代々の家系圖が遺つてゐる!
 僕は俄然強氣に成つた。──横濱が何だ。所詮は人の集まりである。此の人だつて普通の人だ。僕は、自分の「俄然強氣」の内に他者への蔑みが入つてゐる事に氣づかない儘、斯う云つた。
「僕は氏も素性もはつきりした者だ。都會人なんぞに騙されないぞ!!」
「あつは、そいつは傑作だ!」と、其の人は笑ひ出した。「然し、見なさい。上田の生絲商人さん。今、貴方が大見得を切つてゐる間にも、ほら、時間は刻一刻と過ぎてゐるのですよ」
 僕ははつとして、時計臺を見遣つた。何と云ふことだ。時計の針が逆轉してゐる。いや、彼の説明が正しければ、此れは反轉像だ。詰り、時間がものすごい勢ひで流れていつてゐるのだ。
「是は?」
 と、僕は戸惑ひつつも獨り言ちた。是は何だ? 作り物か? 此の時計臺は、一體全體、如何なつてゐるのだ?
 すると、其の人は云つた。
「時は金なりと云ひますからね。貴方と私が不毛な論爭をしてゐる間に、外部世界では半日の時間が經過しました」
「あり得ない!」と、僕は素つ頓狂な聲を上げた。半日過ぎた? いや、幾ら何でも其はをかしい。
 然し、風景は慥かに夕暮れに包まれてゐた。
 ──鬼か、妖怪か。
 僕は、目の前の人影をいまさら不氣味に感じ出した。どうも奇妙である。鬼か妖怪でないなら、狐か狸の仕業か。否、大都會の横濱で其はない。
 其の人は、相變はらず不敵に笑つてゐる。然り、さうとも。
 一番信用ならないのは人間だ。
「如何しましたか? 私のことを信用ならない人間だと思つてゐるやうですね」
 と、其の人は云つた。都會人らしい、然し、やつぱり何處か奇妙な相貌で。──都會人は信用出來ない。今や、僕の内部には疑念と憎惡が滿ち充ちてゐた。此奴の鼻を明かしてやらう。
 僕はそつぽを向き、其の場を立ち去らうとした。何から何までをかしい。何より、僕は僕自身の感覺を少し疑ひ始めてゐた。都會人と眞面に応對する餘裕はない。
「好いのですか?」と、背中に聲を感じた。先刻の人である。「貴方は今、人生の岐路に立つてゐる」
 氣にも留めずに歩き去らうとすると、其の人は尚も、
「貴方は今、人生の岐路に立つてゐる」
 「貴方は今、人生の岐路に立つてゐる!!」
  「貴方は今、人生の岐路に!! 立つてゐる!!」
 
 僕は、合成纖維の研究發表を聞くことにした。
 信州上田の産業を如何にして支へるか。特に、子々孫々にわたつて持續可能な産業を守るには。生絲では、どう考へても限界がある。生絲では、何時か、終はりの日が來る。
 ──合成纖維に、賭けるべきか。
 一つの街の將來を賭けた選擇は、半ば、僕の一瞬の判斷のうちに下された。
 僕は然し、街の將來を憂ふ僕自身の大義の裏に、尊大な功名心が見え隱れしてゐる事に氣附かなかつた。──合成纖維に賭ける。其は、上田の産業を根柢からひつくり返すことでもある。
 ともかく、僕は研究發表を聞くことにした。と云つても、筆頭のサドク教授による基調講演は既に終り、僕が會場に入つた後は、大學院生のしよぼい發表が續いた。僕は正直がつかりしたが、通りがかつた例の人が、隣席から耳打ちした。
「懇親會が、本番です」
 成る程、思へば大學院生も、業績と人脈づくりの爲に、自らに強ひてたどたどしい發表をしてゐるのに違ひない。僕は一寸哀れみ乍ら、院生の發表を聞き流すことにした。論旨の崩潰した、學術發表の體を成してゐないご講演は、自殺行爲ぢみた悲劇の講談である。
「以上、發表を……畢はりマス」
 と、自信なさげな大學院生が宣言すると、場面は忽ち質疑応答の針の筵に變轉した。
「君は先行研究を讀めてゐない」
「新規性は」
「斯の研究は何の役に立つんですか」
「君のは唯の獨斷論だ」
 此奴は見ものである。傑作だ。研究發表を肴に、見も知らない誰かを藁人形のやうに論難出來るとは。僕は一寸大學院生に同情し乍らも、質疑に応答しやうとしてドツボに嵌つていく院生の無樣な姿に、内心笑ひが止まらなかつた。
 自分の内に巣食ふ鬼の存在に、僕は其の時、氣附かなかつた。
 研究發表が終はり、懇親會が始まるやうだつた。僕は云はれる侭、會場に這入り、片隅で人の流れを觀察してゐた。最初はサドク教授が發表で語り殘した話題を開陳するらしい。
 斯う云ふ偉い先生と云ふのは、時間も忘れて自説を語り續けるものと極まつてゐる。サドク教授は、みんなが乾杯の挨拶を待つてゐる事も忘れ、自らの來歴を得々と語り始めた。──何でも、サドク教授の家系は、古代イスラエルの祭司ツァドクの末裔で、日本のアカデミアで査讀に通りやすいやうに、教授の助手時代にサドクと改めたのださうだ。
  ──んなわけあるか、インチキぢやないか!
 僕は咄嗟にさう思つた。祭司ツァドクの末裔? 幾ら何でもデタラメだらう。
 然し、會場の人々は、サドク教授の武勇傳に拍手喝采だ。如何云ふことなのか。みんな催眠術にでもかかつてゐるのか?
 都會の蠱毒と云ふものは怖ろしい。最初はみんな警戒する。處が、一寸誰かに氣を許したり、心に弛みが生じたりした途端、信頼してはいけない人たちに信を置いてしまふ。さう云ふことが、屹度、往往にしてある。
 直感が告げてゐる。此處はをかしな集團だ。
「よく氣が附かれました!」
 と、突然、背後から言ふ聲が。僕は可也吃驚して、「ぎやあ!」と音を出した。幸ひ、サドク教授の話が終はり、會場が歡談の聲に包まれた時だつた。周圍の人たちは、僕に注意をしてゐない。
「誰だよまつたく」
 すると、見知らぬ若者が其處に。 ──見慣れぬも何も、此處に知り合ひなど居る筈がない。僕は上田の街以外、帝大時代の僅かな友人を除いて、本邦に見知つた顏など居ない。
 若者は、人懐こく話し出した。中國からの留學生で、名はマーラーカオと云ふらしい。
「昨今のアカデミアには、徒に權威を襃めそやす風潮があります。然し、其は本來の學術研究の自由とはかけ離れてゐる」
 と、マーラーカオは語り始めた。まん丸い顏に、干しぶどうみたいな目鼻がついてゐるが、彼の言葉は如何にも眞實らしかつた。
 横濱は國際都市である。懇親會場を見囘せば、西歐人だけでなく、アジア人らしい顏ぶれも見られた。マーラーカオは、自分は本國の近代化の爲、此處で人脈を作つてゐる、といふ趣旨のことを云つた。彼は、最後に斯う附け加へた。
「貴重な出會ひに感謝します」
 僕は、彼の「貴重な出會ひに感謝」と云ふ言葉に嫌味らしいニュアンスを感じた。僕は今日の研究會の發表者でもないし、合成纖維の權威でもない。一體何だつて、此の中國人留學生はわざわざ僕に接觸して來たのか。いや、僕が疑心暗鬼に成つてゐるだけだらうか。
 最初に僕を研究會に誘つた通りすがりの人物は、今は、誰か著名な學者らしき人と會話してゐる處であつた。懇親會場にはさまざまな國の言語が飛び交つてゐる。僕は其の場に居心地の惡さを覺え乍ら、ともかくマーと話を合はせようとした。
「君は研究者か?」
 僕の問ひかけに反応して、マーは目をきらきらと輝かせた。於乎、マー。汝は研究者か。何よりも學問を愛する者か。マーは專門用語を交へ、合成纖維に關する研究計劃を滔々と述べた。僕には少しも理解出來なかつたが、とり敢へず、此處は話を合はせておかう。
「で、新規性は?」
 と、僕が質問をした途端、マーは無言に成つた。
 暫くの沈默の後、彼は云つた。
「私は、西歐の進んだ技術を中國の産業に取り入れる事が目的です。所謂 catch up ですね。嘗て、日本もさうでしたでせう」
 更に、マーは附け加へた。
「何でもかんでも新規性、新規性と言つておけばいいと思ふのは淺薄ですよ。學問は新規性がすべてではないですから」
 何と云ふことだ。僕はてつきり研究と云ふのは、「先行研究を讀んだのですか」「新規性は何ですか」「其やつて何の役に立つんですか」を大喜利みたいに云へばいいものと思つてゐた。とんだ恥だ。さうさう簡單にはいかないのか……。今囘、横濱に來てからと云ふもの、僕は出會ふ人たち全員から「お前は莫迦だ」と宣告せられ續けてゐるかのやうな感覺に成つた。田舎者? 違ふぞ! 是でも僕は帝大卒のエリートだ。信州上田の製絲業を擔ふ存在なのだ。と、何度も言ひ返したい氣持ちに成つた。
 然し、眼前に立つてゐるのは紛れもない中國のエリートである。是は敵わない。
 僕の内心を知つてか知らずか、マーラーカオは近くを通りがかつた人に手招きした。矢張り中國人である。訊けば、彼らは中國の製絲業を復興するための研究サークルの役員らしい。
「私たちは、日本の進んだ技術を中國に傳へ、共榮する道を目指してゐます。私たちの計劃に、貴方は參加する資格がある」
 二人は、互ひ違ひに喋り乍ら、だいたい斯樣なことを云つた。若いのに立派だが、兔に角多辯で、つい相手の文脈に引きずられて了ふ。其のうちに、數名の人影が僕の周圍に近づいてきた。西洋人だが、日本語が通じるらしい。大した話もしてゐないのに、
「和巳さん、貴方には見込みがある」
 と、頻りに云ふ。元來根暗の僕は、然樣なことを云はれると騙されるんぢやないかと構へて了ふ。
 何時の間にか、僕の周圍には人だかりができ、僕は信州上田の製絲産業に就いて解説する成り行きに成つた。此の會は合成纖維の會合に違ひないが、製絲産業の實情は彼らにとつて重要であるらしかつた。衆目の中心にあつて喋るうち、僕はだんだん得意に成つて、
「生絲だらうと、合成纖維だらうと、構はない。大富豪に俺はなるッ!!」
 と宣言した。
 拍手喝采だつた。
 僕は次第に場の雰圍氣に呑み込まれた。何だ、學者だらうが大學院生だらうが、怖いものか。僕は製絲産業を支へてゐるのだ。穀潰しのやうな學者より、ヨホド智識も經驗もあるんだからな。
 自らを恃む心持ちが判斷を鈍らせはじめた事に、僕は氣附かなかつた。
 惡い人脈に圍まれる時と云ふのは、何となく嫌な豫感を伴ふものだ。だが、世間的な見榮や野望のために、一つづつ、良心の鍵を外していく。扉を開いていく。……氣附いた時には、既に、以前の自分に立ち戻る事は出來なくなつてゐる。
「和巳さん、貴方には見込みがある。是非とも私たちの事業に參加してほしい」
 と、中堅の教授らしい風貌をした男が僕に云つた。僕はすつかり上機嫌に成り、其の場のヒーローに成つた氣でゐた。僕は、
「纖維のことなら、僕に任せてください」
 と斷言した。
 實際の處、僕は製絲業のことをすべて知り盡くしてゐるわけではないし、纖維全般のことを識つてゐるわけではない。文學に挫折して地元に歸り、地場産業を受け繼いだだけだ。絹次郎のやうに野心的に學んだわけでもない。僕には、長年にわたつて劣等感があつた。
 僕は策謀した。──合成纖維によつて、ライバルに差をつける! 僕は、長年の劣等感を晴らし、帝國日本を擔ふ實業家として成功する事が出來る。屹度だ!
 然し乍ら、己の自尊心と劣等感に依つて強いられたる選擇は、所詮、紛ひ物の金の子牛でしかない。
 僕は、自己自身の虚しい立身出世の幻が、僞物の人脈を引き當てた──其のことに氣づかない侭、懇親會の會場の一角で、哀れな自己顯示欲を慰してゐた。僕の語る言葉は、其のたびごとに、人々の拍手と驚きの聲を招來した。
 ──合成纖維に、總てを賭けよう。
 と、其の時、人垣の中を一人の老人が進んできた。まるでモーセの海割の如く、老人の歩く處に通路ができた。だが、其の風貌は如何にもみすぼらしい。扨ては、老人の身なりが不潔だから、みんな避けたのだらう。
 老人は、僕の顏を矯めつ眇めつ眺めだした。
「あの……素人質問で恐縮ですが、──」と、老人は口を開いた。素人質問? 信州上田の製絲業を支へる僕に、素人質問をするだと?
 何かが、僕の心をかたくなにしたので、僕は目の前の老人を心の中で蔑んだ。よろしい、僕が釋迦に説法をしてやらう。
「あのね、爺さん。さう云ふことは、かう云ふ場所に來る前に、自分で豫習をするべきですよ!」
 と、僕が雄辯に語り始めた途端、周圍がざわついた。屹度、僕の格好良い姿にうつとりしてゐるのだらう。僕は附け燒き刄の智識で、其らしい言葉を羅列した。老人は、ニッコリし乍ら聞いてゐる。だが、僕がまさに大見榮を張らうとした絶妙のところで、彼は言つた。
「貴方の其の理屈は、無理があらうと思はれます」
 途端に、周圍に失笑が漏れた。何だ? 爺さん、僕に恥をかかせようと云ふのか? 無理があらうと思はれます? 勿體振つた言ひ方をして。駄目なら駄目とハッキリ言へば好いぢやないか。僕は咄嗟に、老人に反駁を加へようとした。すると、マーラーカオが慌てて、
「和巳さん! 一寸待つて」
 と靜止した。何、君まで爺さんの肩を持つのか。頭に血が上つた僕をマーラーカオは更に諌めて、まるで保護者が子供に言ひ含めるやうな口調で云つた。
「此の方は、……此方の老人は、纖維學の權威、マンスプ・レイニング博士ですよ」
 な、何だつて?! 此の見窄らしい身なりの老人が、纖維學の權威だと! 
 マンプク博士はニコニコし乍ら僕を見てゐる。まるで嵌められた氣分だ。場の一同が僕を馬鹿にしようと作爲してゐる! 然樣な氣がして了つたが、考へてみれば僕の態度が招いた事だ。言葉を失くした僕にマーラーカオは、
「和巳さん、──」と語りかけた。「貴方とはまだ出會つた許りで、斯樣なことを言ふのはたいへん失禮ですみませんが、貴方には、一寸他人を見下して自分を上げる傾向があるでせう? でも、そんなことをしても他者評價は上がりませんよ?」
 や、辭めろ。僕は今、自己肯定感を持てずにゐる。マーラーカオ、其以上言ふな。もう僕のライフはゼロだ!
 然し、マンプク博士は相變はらずニッコリとして、
「信州は好きです」
 と云つた。博士だけではない。周圍にゐた人たちも、再び僕の近くに來て、
「研究發表は實驗のやうなもので、失敗する事は恥づかしくない」
 と口々に云つた。僕は、何だか心がむずむずしたが、とり敢へず落ち着くことにした。──落ち着け、自分。都會人の前で焦つて恥を晒すな。
 懇親會で出會つた人々は、僕を特別な人脈に引き合はせると云ふ。
「鐵は鐵によつて研かれる。和巳さんの夢を實現するには、信頼出來る人との出愛(であひ)が不可缺です」
 と、其の内の一人が云ふ。聞けば、此の研究會は民間の財界人が支配してゐるらしい。何でも、大學の研究室ではなく、民間企業が出資してゐるから、競爭原理によつて學術研究が進むと云ふのだ。そして、マーラーカオらは、其の出資企業の中で樞要な地位を占めてゐると云ふ。マーは僕に云つた。
「こんな懇親會、一緒に拔け出しませう」
 拔け出しませう。……此の何氣無い言葉が、僕にはとても甘美に響いた。研究會の集まりを拔け、野心的な企業研究の世界に足を踏み出す。其の事實より、僕の耳には、マーの言葉が魅惑の音感を伴つて響いた。同性の青年に魅了せられたのは初體驗かもしれない。
 然し、次の瞬間、僕の腦裏に里子さんの笑顏が浮かぶ。
 駄目だ。駄目なのだ! 僕には里子さんと云ふ婚約者がゐる。僕には、眞實の愛を誓つた女性がゐるのだ。其なのに、其なのに、……
 眼前に立つ中國青年のやわらかな微笑が、僕の心を捉へて離さない。
「和巳さん、──」と、マーラーカオは云つた。「私たちの會の主宰者に是非會つてください」
 僕たちは懇親會場を出た。マーら人脈の主宰者は、關内の裏道に滯在してゐると云ふ。初對面の人間を主宰者に會はせるのは、和巳さんが初めてです、とマーは云つた。數人を從へて裏道を歩き乍ら、僕は、眼前の中國人青年の誘ひで祕密結社の特別な人脈に參加出來る事を内心誇りに感じだした。先刻の懇親會場の混亂も忘れ、僕はいつしか、自分を大きく見せる事で肥大化した自尊心を滿たさうとしてゐたのであつた。今次横濱へ來て、事態は大きく動いた。カリオストロ公國との生絲の通商は、最早存續困難であるかもしれない。然し、今や合成纖維の技術に關して、僕は世界の最尖端の地位にゐるのだ。
 どんな方法でも好い。里子さんさへ幸せに出來れば、其で好いのだ。
 マーら人脈の主宰者は、關内の裏手にある惡趣味な restaurant にゐた。鹿鳴館を摸倣したやうな華美な裝飾がわざとらしい。其處に、マーラーカオをはじめ、關係の者が集まつてきてゐた。
「今日も壓倒的成長!」
 其が、彼らの挨拶の定型文であるらしかつた。マーラーカオら同士も亦、同じ言葉を唱へた。
「今日も壓倒的成長!」
「今日も壓倒的成長!」
 其だけでなく、彼らは僕に復唱を強ひた。
「さあ、和巳さん」と、マーラーカオは云ふ。「合言葉を復唱してください」
 だが、僕は何だか氣後れして了つた。祕密結社に合言葉が必要だと云ふことは、まあ判る。とは云へ、此では餘りにも情緒がないではないか。と、逡巡してゐると、マーラーカオが僕の顏を覗き込み、怖い顏で、
「和巳さん。云つてください」
 と駄目押しした。
「し、然し、──」僕は尚も迷つた。然樣な小つ恥づかしい臺詞、なんで大人が云はされるんだ?!
 けれども、マーラーカオは本氣だ。彼は眞顏の侭、云つた。
「和巳さん。私たちの會合では、其を云ふことに成つてゐます」
「だ、だが!」
 と、僕は更に物怖ぢした。のみならず、同調壓力を強ひる集團に對し狂氣すら感じだした。先刻まで懇親會の場で好青年のやうに感じてゐたマーラーカオが、今度は斯樣なことを云ふのか。どうしたら好いのか。僕は逡巡した。──今此處で歸れば、今此處で歸れば助かる。然し、一世一代のビジネスチャンスを僕は失ふのかも知れない。内心で、僕は皮算用をした。
「和巳さん、ご決斷を」
 と、マーラーカオは幾分優しい口調で云つた。斯くなる上は、仕方ない。
「きよ……今日も、壓倒的、……成長……」
 其の途端、側で默つて見てゐた男性が、
「聲が出てないッ!!」
 と大聲に云つた。
「和巳さん、──」と、マーラーカオも云ふ。「聲が小さいと云ふことは、貴方の人間性が小さいと云ふことです」
 斯様な壓迫面接を受けてゐては、正常な判斷など不可能だ。
 其の時、里子さんの顏が腦裏に浮かんだ。さうだ。僕は里子さんを幸せにせねばならない。僕は其の爲に横濱へ來た。里子さんの爲なら、どんな恥辱も恥辱ではない。
 僕は、恥も外聞もかなぐり捨てて、大聲に叫んだ。
「今日も! 壓倒的! 成長ォーー!!」
 
 場が沈黙した。
 
 次第に、周圍から失笑が漏れた。マーラーカオも、みんな、僕のはうを見て嘲笑してゐる。昔、幼稚園でみんなに莫迦にされた時の記憶が蘇つた。僕の役囘りは、いつも是だ。其の時、マーは云つた。
「和巳さんは、周りに流されやすいお人ですね」
 何と云ふことだ。試されたのだ。周圍の人々は、未だ僕の方を蔑んだ目で見つつ、小聲で、短く、「成長」「壓倒的成長」と挨拶を交はしてゐる。大聲で云はされたのは、新來者の僕を試したのだ!
 僕は、隣に立つマーラーカオの顏を見た。マーは涼しい顏で、
「好かつたですね。是で、みんな和巳さんの名前を覺えましたよ」
 などと云ふ。
 祕密結社の會合は、先刻までの研究會とはまつたく異なつてゐた。薄暗い、一體何時の時代のものとも知れない、西洋趣味の restaurant に有名無名の壯士が集まつてゐるやうだ。そして、店の奧の薄暗いところに、一際異樣な雰圍氣をまとつた男が坐つてゐる。
 ──彼に違ひない。
 僕は、其の男が祕密結社の主宰者であると早合點した。見るからに異樣だが、とは云へ、あの人物と話をつければ、僕は屹度大富豪に爲れるのだ。
「和巳さん、こつちです」
 と、マーラーカオは別の席を指さした。魔人のやうな男の居る處ではなく、入り口附近の明るい方を示してゐる。
「あの人は?」
 と僕が訊くと、マーは、
「ああ、あの人は、ただの酒飮みですよ」
 と応へた。何だ、さうか。
 では、會の主催者と云ふのは、何處に居るのだ? まァ好い。偉い人は後から來るのかも知れぬ。僕はともかくマーに指示された席に坐り、周圍の雰圍氣を伺つた。グラスに酒を注がれさうに成つたが、禁酒黨だと云つて斷つた。然し、なあなあで注がれて了つた。
 場の雰圍氣に、僕は呑まれた。
 拒否する事は出來た筈だ。然し、──グラスに注がれた酒を前に、僕の信念は容易に搖らいだ。禁酒の戒律を僕は破つた。
 里子さんの顏が腦裡に浮かんだ。酒も煙草も呑まない僕を里子さんは好きだと云つた。其なのに、──
 其なのに。
 場の雰圍氣に、僕は呑まれた。
 否、さうではない。
 グラスに注がれた酒を前にして、僕は打算計算を働かせたのだ。
 ──里子さんとの將來、里子さんとの生活の安定を目指すなら、是の會合から出るわけにはいかない。
 理想を貫いて生きる事の甚だ困難である事は、僕の乏しい半生の中で、熟知してゐる處であつた。今、此處で、自己の禁酒と云ふ信念を貫いた處で、一體何の意味があらうか。端的な歸結として、僕はビジネスチャンスを失ひ、手ぶらで信州上田へ歸る事に成るのだ。
 ──清濁併せ吞むべきだ。何が何でも、成功を掴む爲に。
 ──里子さんには、默つてゐよう。 
 斯くして、僕の魂は、一滴、亦一滴と、濁つていつた。愛する者を幸せにすると云ふ大義の下で、僕の倫理觀は、確かに、少しづつ、壞れていつた。
 
 そして、彼は其の時、現れた。
 会の主催者、バアル博士である。
「皆さん、──」と、マーラーカオが立ち上がり、其の場を取り仕切り始めた。「ご注目ください。我々の会の首領、ウサン=クサイ・バアル博士がお見えになりました」
 すると、其の場に居る全員が起立し、一齊に掛け聲を發した。
「今日も壓倒的成長!」
「今日も壓倒的成長!」
「貴重な出會ひに、感謝!」
「貴重な出會ひに、感謝!」
 バアル博士は、右手を挙げ、悠々歩く。農耕を司る異教の男神とでも云つた風貌である。
「今日も壓倒的成長!」 「貴重な出會ひに、感謝!」
  會衆は、バアルを偶像崇拜してゐるかのやうであつた。僕は此處でも、場の空氣に異樣なものを感じた。だが、禁酒の戒律を犯した僕は、最早正常な判斷を下すことが出來なかつた。
「今日も壓倒的成長!」
 と、先刻は言ひ淀んだ言葉が、今度はするつと口から出た。自分の口が、自分の口でないかのやうに。
 バアル博士は、薄汚い restaurant の店内を徘徊し、一人一人に手を舉げて挨拶した。バアルが側を通るたび、會衆は、「貴重な出會ひに、感謝!」と叫んだ。
「さア皆さん、──」と、マーが司會を擔ふ。「バアル博士が總覽する、私たちの祕密結社の例會を始めます。立ちませう」
 一同、起立した。僕も起立した。そして、會衆は再び、合言葉を叫んだ。
「今日も壓倒的成長!」
 バアル博士は表情一つ變へず、會場の中心に据ゑられた椅子に坐つた。舉動が一寸をかしい。僕は思つた。──あれは異形の者ではないか。
 然し、マーラーカオは然樣なことを意に介さず、司會を續けた。
「バアルは、皆さんと共に」
 すると、會衆は答へた。
「亦司會者と共に」
 マーラーカオは、まるで異教の祭司長の如く、司式を取り仕切つていく。
「心を無にして闇を覗き」
「賛美と懺悔を捧げませう」
 是は、學術組織なのか? 怪しい宗教ではないか。然樣な理性的判斷を下す力は、僕には既に無かつた。禁酒の戒律を犯した僕は、既に意識がすつかり混濁してゐた。ぐわんぐわんと歪む視界の中、マーラーカオの聲が響いてゐる。
 彼の話を綜合すれば、此の會の名稱は幻智學會と言ひ、學問、藝術、社會運動などのあらゆる領域に影響力を有してゐるらしい。
 マーラーカオは概説する。
「幻智學會は、バアル博士の指導の下、舊約聖書に記されてゐる人類史の眞實に立ち返りました。トバル・カインの製鐵技術を筆頭に、古代メソポタミアやエジプト、アッシリアの失はれた文明を恢復する事が、私たちの使命なのです」
 凄い理屈だ。舊約聖書は僕も讀んだが、すつかり理解出來たとは云へない。とは云へ、彼らの語る歴史觀が主流派の其と異なつてゐるらしい事は、一応理解出來た。
 マーラーカオは續けた。
「今こそ、失はれたイスラエルの十支族の嫡流が、世界を支配する。アブラハムの系譜によるイスラエルの各部族は、アッシリア捕囚の後、其の行方は知れない。だが、其の後裔は中央アジアから新疆を超え、私たちの先祖と成つたのだ。然り、ダビデの血統は、日中兩國に遺されてゐる!」
「今日も壓倒的成長!」
 會衆は叫んだ。マーラーカオの語る歴史觀が出鱈目である事に、誰も氣づいてゐないのだらうか。だが、──幸ひなことに、珍妙な歴史認識のご高説はすぐに畢はり、具體的な商賣の話に移つた。マーは云つた。
「世界を統一するためには、着實な經濟圈の構築が前提です。其のために、私たちは科學的に考案された“ネットワアク・ビジネス”により、利益を増大し、共に研鑽し合ふことで、各々自己を成長させなければなりません。今こそ、飛躍しませう。大正の世の坂本龍馬を目指して!」
「貴重な出會ひに、感謝!!」
 何と云ふことだ。僕はとんでもない場所に這入り込んで了つた。僕は坂本龍馬を好きではない。のみならず、自分のことを坂本龍馬に擬えるやうな意識の高い連中に關しては、人一倍の嫌惡感を抱いてゐた。僕が忠誠を尽くすのは、真田一族後継の里子さんだけだ。僕は一體如何したものか。信州上田の製絲業を支へるべく、カリオストロ公國との商談の爲に横濱まできた。ところが、合成纖維に惹かれて初見の學會に參加した舉句、斯樣ないかがわしい祕密結社に入り込んで了つた。意識高い連中と關はるのは、死んでも厭だ。
 だが、此處でも實利が僕の良心をぶつ叩いた。──今囘の横濱行きは、貴重な機會だ。成果無しは許されない。みんな、生絲商人としての僕の凱旋を待つてゐる。誰もが、好奇の目で僕を見るだらう。上田の人々を吃驚させるやうな成果を持つて歸らなければ。
 僕は、戦略的に妥協した。其の場の人々に、彼らの言動に不服があれば、すぐに立ち上がり、外に出ればよかつた。我が國の産業に關はる者として、同じ營みに關はるすべての人の言動を観察し、意識高い文化から距離を取るべきだつた。然し、僕は其をしなかつた。
 自己實現の呪ひに、僕はかかつた。自己を物神化する嘘僞りの信仰に、僕は其の時、歸依したのだ。
「絶望の祭儀を終ります。──」と、マーラーカオは告げた。會が畢わるのだ。會衆がつづけて、「行きませう、死の平安のうちに。邪神に感謝」と唱へる。此の集まりは、瀆神だ。主の目に正しいと言へる處が一つもない。偶像に仕へる、僞物のekklēsiaだ。けれども、僕は其の場から離れなかつた。目の前の利益の爲に。其許りではない。
 ──斯樣なレベルの低い連中なら、僕が手玉に取る事だつて出來る筈だ。
 と云ふ、思ひ上がりの心が芽生えたのだ。
 祕密結社の計劃は、次のやうなものである。今後、資本制經濟が肥大化し、商品流通の市場が擴大するにつれ、自然界は人工物に置き換えられていく。天然の纖維では、人類のニーズを滿たすことが出來ない。其処で、絹絲を合成纖維に置き換へる。其だけではない。
「物質文明に飽き足らず、精神の充足を目指す人々に對し、手頃な商品を提供する」こと。其が、彼らの事業の根幹であつた。精神の充足、其の爲の、商品! 僕は少々ギクリとした。近代社會では、すべてが商品經濟に囘收せられて了うのか。
「其の爲に、──」と、マーラーカオは云つた。「私共が主力商品として開發したのが、是です!」
 何時の間にか、テエブルの上には、不氣味な像が竝べられてゐる。金屬製だらうか? 否、是も畢竟イミテーションであらう。マーラーカオは自信ありげに、
「是はアシェラ像です」
 と説明を始めた。彼の語つた處に依ると、金メッキの木像であるアシェラ像を工場生産し、其に附加價値をつけて、高額で販賣すると云ふのだ。彼は云ふ。
「人間は、物語を食べて生きてゐます。ハリボテの神像に喜んで拜跪するでせう」
 僕は少々狼狽した。狼狽して聞き返した。
「詰り、僞物の神像を大量生産して、本邦臣民に賣りつけると云ふのか?!」
「さうです。──」と、マーラーカオは肯定した。「神は死んだ。然し、人間は尚、神を求めてゐる。資本主義は、人間の欲望に基づいて肥大化するシステムです。僞物と分かりきつたモノの方が、商品として相応しい」
「其は、イカサマ商賣ぢやないのか?!」
 と、僕は吃驚して叫びさうに成つたが、マーラーカオが本氣(マジ)で云つてゐると云ふことは判つてゐた。彼は冷靜に辯明した。
「イカサマ商賣? 世界の眞理を知悉してゐる我々が、イカサマ商賣を企んでゐると? 和巳さん、其は言ひがかりです。我々は、二〇世紀の科學技術に基づき、世界の眞理に到達したのです。そして、我々には、さうではない無智蒙昧なる民を啓蒙する義務がある!」
 マーラーカオは更に續けた。
「正義は我々の掌中にあります。ですから、世界史のヘゲモニーを握るためには、どんな手段を用ゐても良いです」
「其で、君の云ふ『無智蒙昧な民』にアシェラ像を賣りつけて、自ら富を集積しようと云ふのか?!」
「さうです!」
「やつぱりイカサマぢやないのか?!」
 と、僕は混亂して云つた。マーラーカオの理屈が解らない。目的は手段を正當化するものか? 自分たちが正しいのなら、どんなことをしても好いのか? 然し、マーラーカオは自説を更に述べ始めた。
「日本帝國の政府も、同じことをしてゐるではありませんか? 彼らは、神ならぬ者を神として、帝國臣民を支配下に置いた。神佛分離令によつて地方共同體にどのやうな混亂が生じたか、貴方は能くご存知の筈です」
「神佛分離令、……」
「無論、神佛分離は廢佛毀釋を意味しない。處が、各地で行きすぎた廢佛の機運が生じ、更には山伏や修驗道、狐憑きを落とす祈祷や口寄せの類も亦、廢絶を餘儀なくされた。──民衆の心を國家が支配する。其が貴方方の經驗した“近代”です」
 僕は驚愕した。マーラーカオは、如何して日本の歴史に詳しいのか。いや、中國の人々が日本の近代に詳しいのは、別段不思議ではない。彼らも亦、近代を迎へつつあるのだ。だからこそ、アジアの先覺としての日本を研究してゐるのだ。
 マーラーカオは云つた。
「國家が僞神を拵へ、民衆を支配しようとしてゐる! 其が、貴方の國體の實態です。然樣なことが許されるのであれば、其ならば! 私たちの祕密結社がアシェラ像を販賣し、民衆を煽動し、バアル博士の指導の下で、獨立のセクトを形成しても好い筈です!」
 筋が通っているのか、通っていないのか、そもそも、てんで出鱈目であるのか、俄には判然としない理屈である。とは言え、彼らが明確な動機を持って組織を動かしているらしいことはわかる。爾して、其の目的は?
 僕は彼に訊ねた。
「マーラーカオ、君たちは何を目指してゐるんだ?」
  すると、マーは即答した。
「天皇の××です」
「今何と云つた?」
「天皇の、××です!」
 マーラーカオは、顔色一つ変えずに復唱した。何ということだ。僕はもはや社会主義を清算したのに、商談の為に訪れた横浜で、とんでもない集団に入り込んでしまった。天皇の××! そんな国家転覆じみた企みを簡単に云わないでくれ。
「マーよ、天皇を××し、其から如何する積りだ?」
 と、僕は訊ねた。さしたる計劃もない侭、衝動的に云つてゐるのではないかと疑つたからである。處が、マーラーカオは冷然と喋り始めた。
「先づ、此の世界を僞物で埋め盡くします。商品經濟の循環を利用して」
「其で?」
「兔に角埋め盡くすのです。現の世界を、僞物で。明治政府が、天皇を神のやうな地位に押し上げたやうに、私たちは摸造品で世界の價値秩序を壞します」
「其が天皇の××と關係があるのか?」
「あります」
 と、マーラーカオは一息つき、更に云つた。
「惡貨で良貨を驅逐する。──いえ、惡貨だらうが、良貨だらうが、貨幣としての交換價値は變はりません。私たちは、僞物の神像を商品として市場に投入する事によつて、資本主義を搖さぶります。人々の欲望、射倖心や自己愛を、貨幣として換金するのです!」
「其で、如何やつて天皇を××する?」
「直接手を下す必要はありません。僞物に突き動かされた人々の欲望は、他者よりも上でありたいと云ふ思ひを増し、延いては、領土擴張の野心につながるでせう。帝國日本は自滅します。そして、天皇は×ぬ! ××刑です!」
「××刑?!」
「さう、××刑です!!」
 マーラーカオの表情が、恍惚としたやうに見えた。此奴は、天皇が×ぬ瞬間を想像して、エスクタシイを感じてゐるのだ。天皇が人民の手にかかり、××臺で首を△られる姿を。
「莫迦な! 不敬だぞ!」と、僕は反撥した。「僕はさう云つた、政府秩序を暴力的に破壞するやうな勢力とは、二度と組まない」
 するとマーは云つた。
「好いんですか? 貴方は此の儘、信州へ歸る。何の成果も得られませんでした。……念を押しますが、今日が最初で最後のチャンスですよ」
「お斷りだ」
 と、僕は即答した。當たり前の話である。幾ら何でも、お天道樣に恥づべきことは、すべきでない筈だ。
「僕は歸る。收穫無しで結構だ」
「本統に好いんですか、和巳さん」
「當たり前だ。危ない橋はもう御免だ!」
 
 
 第六部 アシェラ像の呪い
 
「ほら、和巳さんよ」
 と、今日も誰かが噂話をしてゐる。
「可哀想に。横濱まで商談に行つて、何の成果も得られなかつたらしいわ」
「帝大卒をハナにかけた穀潰しね」
「車夫でもやつて出直したら好いわ」
 言ひ返す言葉もない。僕は畢竟、只の無能である。
 
 信州上田に歸つた僕は、人々から好奇の目を向けられた。カリオストロ公國との商談の爲、横濱へと向かつたと云ふのに、商談はなされず、收穫無しで戻つてきた。──斯樣なことを表沙汰には出來なかつた。一週間、僕は自宅に籠つた。あらゆる臆測が渦を卷いた。中には、「和巳さんが西洋人と密かに諮り、徳川埋藏金の地圖を持ち歸つてきた」と云ふ樂觀的な臆測を語るものもゐた。だが、民衆の多くは、惡意を以つて僕を語つた。
「和巳さんは商談の約束に遲刻した結果、怪しげな心靈術のセミナアに參加して歸つてきた」
 といふ、ほぼ正確な事實を踏まえた情報が、上田市民の間に流通してゐた。あの日、横濱の通りに間諜でもゐたのか。誰が話を傳へたのかはわからないが、概ね、人々の好奇の目が、きはめて優秀なる諜報能力を發揮するといふことは間違ひないやうだ。
 大衆と云ふものは、恐ろしい。
 然し、凡ては僕の自己責任だ。
 僕は、自己自身の矜持と裏表の關係である能力主義と自己責任論に囚われてゐた。横濱行きを不調に終へた僕は、自己嫌惡の感情から、暫く謹愼の時間を過ごさうとした。其処で僕は、非大卒の庶民に混じつて、上田市内のお店で壽司にたんぽぽを載せる仕事を始めた。一般庶民に混じつて單純作業をする事が、横濱での失敗の禊に成る。僕は素朴にさう考へた。是の考への奧底に、日々の生業として勞働に從事する人々に對する無自覺な蔑視が紛れ込んでゐる事に、僕は未だ氣附かなかつた。
 扨て、僕が壽司にたんぽぽを載せる仕事を始めてから三日目のことである。話を聞きつけた連中が冷やかしにやつてきた。
「おう、帝大卒が壽司にたんぽぽを」
「凄いねえ、帝大卒が載せるたんぽぽ」
「さぞかし有能な載せ方をしてくださつてんでせうな」
 心無い人々の聲が、僕の自尊心を抉る。だが、僕は最早、一切の痛みを感じなかつた。文學の道に挫折して以後、僕は恰も濁流に飜弄される木の葉の如く、自己自身を見失つた。誰かに非難されても、否定されても、抑も自分が自分であると云ふ感覺が稀薄であつた。
 やがて、見覺えのある厭な顏が、店の前に現れた。絹次郎である。絹次郎が、僕を冷やかすためにやつてきたのだ。
「ハンス王子。今度は壽司屋を始めたか」
 と、絹次郎は、相變はらずの變なあだ名で僕を呼ぶ。ハンス王子と謂はれると、身體がむずむずする。
 僕は默つて、壽司にたんぽぽを載せる作業にひたすら集中した。絹次郎のやうな奴をマトモに相手にしてゐたら、全體何を云ひ出すかわかつたものでは無い。今に新幕府を打ち立てるなどと滅茶苦茶なことを云ひ出すのに違ひない。
 絹次郎は、僕に無視されるのが面白くないのか、頻りに僕の視界に入つて來ようとした。
「おい、ハンス王子。見忘れたか?!」
 と、彼は云ふ。だが、僕は目の前の壽司にたんぽぽを乘せる仕事で手一杯だ。斯樣な鼻持ちならぬ男の相手など、してゐられるか。
「ハンス! ハンス王子!」
 絹次郎は何度も呼びかける。邪魔をするな。此の店の壽司は製絲技術を応用した機械を導入してをり、規格通りの壽司がレエルの上を流れていく。即ち、僕がとちると、たんぽぽが載らないままお客樣に壽司を出してしまふことに成る。ずつと無視してゐたら、とうとう、絹次郎は觀念したらしい。彼は、變なあだ名で僕を呼ぶことを辭めた。
「和巳君、常田和巳君!」
 何時になく叮嚀な呼びかけに、僕もさすがにびくりとした。絹次郎からフル・ネエムで呼びかけられたのは初めてかも知れない。流石の僕も、一度手を止めて、絹次郎の方を睨んだ。
 何だか奇妙だ。絹次郎の姿を目視した途端、僕は何かを感じ取つた。絹次郎、彼の姿は普段通りである。だが、何處となく、何とも云へない dark なアウラを纏つてゐる。然樣な感じがするのだ。
「如何した、絹次郎? 存在から邪惡な匂ひが立ち昇つてゐるぞ」
 と、僕は云つた。以前から、絹次郎には或る種特異なアウラがあつた。然し、數週間會はない間に、僕が横濱へ行つてゐる間に、彼は更に邪惡な雰圍氣を纏うやうに成つた。
「和巳君、──」絹次郎は云ふ。「怪しい儲け話に興味は無いか?」
「儲け話?」
「さうだ。儲け話だ」
 僕は嫌な豫感がした。怪しい儲け話と云へば、横濱で隨分厭な思ひをした。ようやく上田に歸つてきたと云ふのに、また然樣な話とは。僕は一寸俯いた。然し、絹次郎は氣に求めずに、儲け話を吹聽し始めた。
「和巳君。君は講と云ふものを識つてゐるか?」
「コウ、と云ふもの……?」
 僕は頭の中で、ありとあらゆるコウと云ふ語を自由聯想した。甲、孝、乞ふ、戀ふ、……里子さんを戀ふ、結婚の許しを乞ふ、義父さんに孝行、……情けない事である。僕は、凡ての物事を里子さんとの戀愛に結びつけずにはゐられぬ戀愛至上主義なのだ。
 絹次郎は、自慢げに云つた。 「帝大卒の君は、然樣な事も識らないと云ふのかね。講は、農民の協同の爲の金融互助組織のことだ」
「ああ、其なら、」と、僕は漸く合點が行つた。たしか、内村鑑三先生の口述が掲載された雜誌に、二宮尊徳の五常講のことが取り上げられてゐたはずだ。だが、絹次郎は何故急に然樣なことを言ひ出したのか。
 絹次郎は、僕の心の中を讀み取つたかのやうに話し出した。
「和巳くん、一緒にアシェラ像を賣らう」
「アシェラ像?!」
 僕は頓狂な聲を上げた。厭だ厭だ、本當に厭だ。其の言葉をもう聞きたくない。其にしても、絹次郎は一體何處で、例のアシェラ像のことを識つたのか。
「絹次郎。アシェラ像の話は辭めて呉れ」
「マァ聞き給へ。俺は確實に儲かるビジネスを思ひついたのだ」
「其は、先刻の講の話と關係してゐるのか?」
「關係してゐる!」と、絹次郎は目をギラギラさせて云つた。此奴が目をギラギラさせてゐる時は要注意だ。ほんの一時の思ひつきを一世一代の大事業のやうに語り始め、周圍を卷き込むことに成る。然うに決まつてゐる。僕は、肥大化した自己愛を抱へてゐる絹次郎の歪なパーソナリティに就いて、厭と云ふ程に熟知してゐる。今度も亦、周圍を振り囘すのに違ひない。
「絹次郎、僕は君の與太話になんか乘らないぞ!」
「まあ聞け。俺の考案した儲け話と云ふのは、だ」
「聞くものか!」
 と、僕は抵抗しようとした。だが、絹次郎は意にも介さず、
「好いか、俺の考案したのは、金融互助組織としての講を資本主義に合わせて改造したものだ。即ち、人々の信頼関係を商品に替えるのだ!」
「信頼関係を?」
「そうだ。人と人のあたたかい繋がりを介して、商品流通の連鎖を構築する。名付けて、無限講。或いは連鎖講と呼ぼう」
「無限……連鎖講……」
 僕は妙な違和感を覺えた。金融互助、相互扶助の組織と云ふのが、二宮尊徳翁以來の講の基本だ。然し、絹次郎は其を換骨奪胎し、商品を賣る爲に利用しやうとしてゐる? 無限講だか、連鎖講だか知らないが、迚も厭な豫感がする。
「絹次郎、君は其で、──」
「さうだ、アシェラ像を澤山賣るのだ! 上田市民に一家に一臺!」
「一家に一臺」
 僕は言語に窮した。絹次郎め。お客樣商賣だと云ふのに、彼には神像に對して敬意の缺片もないらしい。其より何より、僕は横濱で出くはした怪しげな會のことを思ひ出した。絹次郎は、一体何処で、アシェラ像の話を聞いたのか。そして、無限連鎖の如何わしい商売をどうして思いついたのか。
「なあ、絹次郎よ、──」と、僕は少し落ち着いて、かの偏屈野郎に話しかけた。「君は何処でアシェラ像の話を聞いたのだ?」
 すると、絹次郎は澄ました顔で答えた。
「先週、上田市内で大事な会合があったのだよ。そう、君が横浜で商談に失敗している頃にね。何でも、高貴な身分のお方がグレートディストリビューターを拝任しているというのだよ」
「グレート……ディストリビューター……」
 僕は英語は苦手ではない。然し、絹次郎の口から飛び出した言葉に、何とも云えないいかがわしい響きを感じた。高貴な身分、グレートディストリビューター、……詐欺商売の騙し文句ではないのか。
「絹次郎、君の參加した會合と云ふのは、……」
 と、恐る恐る僕は訊ねた。すると、絹次郎は、何やら獲物を狙ふ捕食動物のやうな目つきをして、僕をぢつと睨んだ。何だ。嫌な豫感がする。やがて、一呼吸置いて、彼は小聲で云つた。
「今日も壓倒的成長」
「絹次郎。お前、まさか。……」
 何と云ふことだ。僕が横濱で引つかかりかけた怪しい靈感セミナアが、既に信州上田の市民を毒牙にかけてゐるとは。そして、平生は冷靜沈着であるはずの絹次郎が、まんまとアシェラ像の罠に嵌つてゐるとは。
 僕は、横濱で何とか振り切つた積りに成つてゐたアシェラ像の呪ひに怯懦した。──僞神とは云へ、莫迦には出來ぬ。此奴は、人の欲望につけ込み、地の果てまででも附いてくるのだ。紛ひ物の商品だとしても、其の内奧には、邪な人の念が篭つてゐる。
 僕は確信した。絹次郎はアシェラ像に囚われてゐる。
 僕はアシェラ像に一切興味がない。
「和巳君、──」と、絹次郎が神妙な面持ちで云つた。「君は不審に思つてゐるだらう。俺が豹變した事に」
「ああ」
「然し君も、信州上田の發展を望んでゐる、な?」
「其は、然うだ」
「神は死んだ。然し、人間は尚、神を求めてゐる。資本主義は、人間の欲望に基づいて肥大化するシステムだ。僞物と分かりきつたモノの方が、商品として相応しい」
「其の話は何処かで聞いた」
「和巳君。アシェラ像を賣り、億一千萬の富を築いて、有名に成らう。社會正義を考へるのは其の後でいい。まづは自分の人生が第一だ! 資産と知名度無しには何も出來ないのだ」
 絹次郎は、最早何處にでも居る wanna Be A Dream maker の一人に成つて了つた。然りとて、僕は瀆神的な商賣になぞ關はる積もりは無い。
「絹次郎、其の話は、今後一切辭めて呉れ」
「何故だ」
「何故と云つて、僕はイカサマ商賣に興味が無いし、有名に成る積もりも無い。何より、絹次郎。君の今の舉動は不審だ。信頼出來る要素が無い」
 僕は、絹次郎の怪しげな勸誘を直ちに拒絶した。すると、絹次郎は、
「きつと、さうか」
 と、まるで平安時代の下人か檢非違使のやうな聲で念を押した。さうして、一足前へ出ると、不意に僕の顏の前へクロオズ・アップして、噛みつくやうに斯う云つた。
「だが、もう遲い。──和巳君。今頃、俺たちの新しい繭倉庫には、アシェラ像が滿載だ」
「何だと?」
「もう發注濟みだ」
 絹次郎は不敵に笑つた。何と云ふことだ? 完成した許りの四階繭倉庫は、今頃、アシェラ像で滿載だと云ふのか。
「絹次郎、えらい事して呉れた!」
「何がだ」
「何がつて、然樣なことをしたら、絹絲の生産は止まつて了うぢやないか!」
「結構なことだ。是からの信州上田は、俺のネットワアク・ビジネスで榮えるのだよ。何時迄も製絲業の繁榮が續くと思つてはいけない」
 絹次郎は、何かに取り憑かれたやうに目を燦然と輝かせ乍ら、更に云つた。
「なあに、繭倉庫を空け度いのなら、さつさとアシェラ像を賣り切れば好い。和巳君、上田市民に神像を賣らう」
「莫迦野郎。あんなもの、賣れるものか!」
「賣れるとも。好いか、まづ、君の近しい友人を二人誘へ。其の二人に、アシェラ像を賣る」
「二人に?」
「さうだ。大事なことは、其の二人に賣つて終はりではない、と云ふことだ。其の二人に賣つて終はりにするのではなく、二人の信用を我々が預かる。即ち、アシェラ像を買つて呉れた友人に、其々二人づつ、更に神像を賣る Target を紹介してもらふ」
「其で?」
「二人の友人に、其々、新規に二人づつ、アシェラ像を賣るやうにさせよ。さうすれば、二人から四人、四人から八人、八人から十六人、……と、商品が無限に賣れていく」
「莫迦な」
「莫迦ではない。やる氣があれば出來る」
「絹次郎、其が君の云ふ無限連鎖か」
 さうだ、と彼は肯ひた。
 冗談ぢやない。然樣な商賣が成立するものか。二人から四人、四人から八人、八人から十六人、十六人から三十二人……其のまま指數凾數的に顧客が増えれば、あつと云ふ間に日本の總人口を超えて了ふ。持續可能なビジネスではない。
「絹次郎! 君は氣が觸れて了つたと云ふのか。何時もの冷靜な君は何處へ行つた?」
「無論、俺は冷靜にビジネスを考へてゐる」
「目を覺ませ! 是は惡徳商法だ!」
 アシェラ像の呪ひだ。然り、さうに違ひない。僕が横濱で誘惑せられた異教の神の呪ひだ。だが、絹次郎は聞く耳を持たない。のみならず、僕の方を不氣味に凝視め、グヘヘヘエヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘと笑ひ出した。更に云つた。
「和巳君。もう遲いのだ。繭倉庫にはアシェラ像が滿載だ。早く完賣させねば、製絲工場の操業に差し障りがある」
「其は、君が獨斷でやらかした事だろ」
「さうだ。さうでもあるが、最早、連帶責任だ。和巳君、一緒にアシェラ像を賣らう。そして、天まで屆く富を積み上げ、有名に成らう」
「絹次郎。其處まで墮ちたか!」
 最早是迄だ。絹次郎は對話の出來ない状態に陷つて了つた。欲に囚われた人間は、其のまま奈落の底まで頽落する許りだ。僕はさうなりたくない。
 僕は、壽司にたんぽぽを載せる仕事を放り出して、繭倉庫へ走つた。背後で絹次郎が叫ぶ。
「和巳君。仕事を投げ出すのか」
「うるさい! お前が何とかしろ」
 僕は繭倉庫へ走つた。近代製絲業の基幹たるべき新しい四階繭倉庫が、僞神の像に埋め盡くされる。──想像するだに恐ろしい! 絹次郎も絹次郎だ。然し、僕は僕自身を悔いた。僕が横濱で失敗せねば、斯樣な面倒事に卷き込まれる事は無かつたかもしれない。
 街を行く人々が、僕に何か話しかける。然し、僕には全然聞こえなかつた。僕は繭倉庫へ走つた。絹次郎も、街の人々も、僕の腦裏からは急速に消えていつた。僕は、僕自身が不甲斐なくて仕方がなかつた。僕の不甲斐なさが、あらゆる艱難を招き寄せたのだ。繭倉庫の中には、今頃、不氣味なアシェラ像が滿載なのだ。其は、直截的には絹次郎のした事とは云へ、元はと云へば、僕自身の所爲なのだ。異教の誘惑に引き込まれさうに成つた僕が、惡運を招き入れた。
 繭倉庫に着いたら、全部、打ち壞してやる。
 もう僕は搖るがされない。アシェラ像を打ち壞し、異教の祭壇を燒き拂つて、自分らしい人生を取り戻すのだ。僕は、神像を燃やし、其の灰を千曲川に投げ捨てる樣子を何度も何度も想像した。誰が止めたつて、辭めるものか。凡てを燒き拂つてやる! さう決意して、僕は、眞新しい四階繭倉庫の近くまで來た。
 だが、──
 時に、夕刻であつた。薄闇の向かふにぼんやりと佇立する繭倉庫の白いかげに、僕は怯懦した。何とも云へず、不氣味さを感じ出したのであつた。
 あの、繭倉庫の中には、今頃アシェラ像が整然と並んでいるのであろう。僕は、其の様子を想像した途端、不気味さに怖気付いた。薄暗い繭倉庫の各階に、アシェラ像が並んでいる様子を想像しただけで、身体の芯がガクガクした。
 先刻迄の勇氣は、揮發して了つた。
 僕は完全に怖氣附いた。今、アシェラ像を打ち壞すほどの強健な靈魂は、僕の身體には無い。繭倉庫を眼前にして、僕はあつさり決意を放擲した。今、是の妖しい夕暮れの中で、繭倉庫の中のアシェラ像の大軍に向き合ふ勇氣は無い。
「其處に無ければ無いですね」
 と、背後から突然聲がした。僕は「うわあ」と變な聲を出した。振り向ひたが、誰もゐない。氣の所爲か? と、あらぬ方向から「此方ですよ」と再び聲が。すると、見覺えのある人の影が其処に立つてゐた。横濱で偶然出會つた例の通行人である。
 何故此處に、横濱の例の通行人が?と、僕は一瞬訝しんだ。然し、最早あまり驚かなかつた。此の所、驚くやうなことが起こりに起こり、感覺が弛緩して了つた。
 アシェラ像の件に此奴らが絡んでゐる事は間違ひなかつた。いづれ僕の眼前に現れる事は豫感した。蓋し、絹次郎に惡徳商法を唆したのも、此奴らの關係の者であらう。
 僕は其の人と目を合はせないやうにして、其の場を離れ乍ら、云つた。
「君たちには、關はらない」
 だが、其の人は何も聞かなかつたやうな氣配で、応へるともなく応へた。
「貴方はアシェラ像から逃れられない。貴方が其れを招き入れたからです」
「其がどうした。然樣だとして、何なのだ。信州の地に異教の神像を持ち込まないでほしい」
 然し、其の人は僕の言葉に直接応へず、またしても意味深長な言葉を發した。
「氣をつけてください。貴方は今、人生の岐路に立つてゐる」
 横濱で聞いたのと同じ臺詞だ。此の人は、またしても僕をマインドコントロールしようとしてゐるに違ひない。聞くものか。僕は夕闇を歩き出した。繭倉庫から離れ、其の人から直ちに距離を取つた。騙されるものか。惡徳商法になぞ、僕は一切關はる積りはない。
「氣をつけてください」
 と、其の人は繰り返した。何だかからくり人形のやうだ。さうだ、此れまでに見てきたものが趣味の惡い傀儡師の創作であつたらよいのに! 僕は今や、自他の欲望の爲に彼是と振り囘せられる事に疲れてゐた。僕は云つた。
「アシェラ像など、知るものか。明日に成つたら、全て燒き拂ふ!」
 僕は其の場を離れようとした。然し、其の人は後ろから冷ややかな笑ひを僕の背中に浴びせた。
「うふふふふ。和巳さん、其は如何でせうか。明日に成つたら、貴方の決意は屹度搖らいでゐます」
 僕は立ち止まつた。然し、最早振り返ることはしなかつた。この手の心理的な搖さぶりに乘つてはいけない。動物的直感が、僕にさう告げてゐたからだ。其の人は最後に云つた。
「氣をつけてください。和巳さん、貴方は女性を前にすると格段に判斷力が鈍ります」
「うるさいな!」
 と、僕は思はず口走つたが、最早、眼前の人物に關はり合ふ氣持ちは無かつた。如何とでも云へ、と云ふ投げやりな態度で、僕はさつと其の場を離れた。
 圖星を突かれたのは間違ひなかつた。僕は里子さんを前にすると、冷靜な判斷が出來ない。
 だからと云つて、何なのであらう。何故、能く知りもせぬ相手から、其のことを指摘されねばならぬのだ?
 僕は、凡ての人類に對し、絶對的な不信を感じだした。人間なんて、亡びて了へ。里子さん以外、里子さんと僕を祝福して呉れる人以外、全員亡びて了へ。
 己の善惡の判斷に僕は忠實であつた。否、忠實である積りであつた。實際は、ほんの一時の出來事に飜弄され、壽司にたんぽぽを載せる仕事を抛棄した許りでなく、繭倉庫のアシェラ像も其の侭にしてしまつた。僕には最早、周圍を客觀的に見る事が出來なかつた。
 ──みんなみんな、×んで了へばいいのに。
 僕の内部で亦、何かが壞れる音がした。他者の心無い言葉に傷つき、安住の地、避けどころを僕は見失つた。心の奧の、奧の底から、眞つ黒な Nihilism が勵起した。早く里子さんに會ひたい。一秒でも早く里子さんに會つて、凡てを忘れて了ひたい。僕は驅け出した。何處へともなく驅け出した。と、直ぐ傍から聞き慣れた高い聲がした。
「和巳さん……?」
 里子さんである。夕暮れの中に、彼女の姿がぼうつと浮かんでゐた。
 
 
 第七部 共依存の罠
 
 僕は來た道を振り返つた。先刻まで話してゐた人影は無い。そして今、目の前に里子さんの姿が浮かんでゐる他は、誰一人として周圍に居なかつた。靜寂が場を支配してゐた。里子さんは、僕の顏を凝視した侭、默つて立つてゐる。
 里子さんに間違ひはない。だが、僕は、夕暮れ時の異樣な雰圍氣に壓倒された。そして、眼前の里子さんは、僕の識つてゐる里子さんではないやうな氣がした。何だか、妙に大人びてゐる。そして、彼女は僕の顏を凝視した侭、矢張り默つて立つてゐた。僕は、或いは其が里子さん其の人ではなく、里子さんの幽靈ではないかと感じた。
「……里子さん?」
 と、僕は、恐る恐る訊ねかけた。すると、彼女は決然と、
「はい」
 と応へた。間違ひない。幽靈ではない。里子さん其の人だ。聲を聞けば、其が身體の物理的な構音を伴つてゐる事が判る。
 僕は漸く安堵して、里子さんに喋りかけた。
「いや、すまない。何だか君が君でないやうな……」
「私が、私でないやうな……?」
 里子さんは訝しげな表情をした。矢張り、どこかがをかしい。僕の知つてゐる里子さんは、もつと子供らしかつた。──と云ふよりも、十三歳の少女は、畢竟、未だ子供である。だが、目の前の彼女は、何處とも云へず、大人の風貌を備へ出してゐた。僕は再び躊躇して、「いや、さうぢやなくて、……」と口ごもり乍ら言つた。
 里子さんは暫く默つてゐたが、軈て、僕の心を見透かしたやうに言つた。
「久しぶりに見た私が大人びてゐたから、驚いたのでせう」
「え?」
 僕は型通りに驚いて了つた。誰も彼もが、僕の内心を識り盡くしてゐるかのやうだ。殊に、里子さんは特別だ。彼女は更に、
「もう一つ當ててあげませうか」
 と云つた。
 僕は默つて彼女を見てゐた。里子さんも暫く僕を見てゐた。が、やがて、彼女は云つた。
「和巳さん。貴方は、私に横濱のお土産を買つてくる約束をすつかり忘れてゐるでせう!」
 僕は、あつ、と情けない音を發した。……さうだつた。いろいろのことが起こりすぎて、里子さんは再び默つて、僕を凝視めてゐる。僕も默つた。僕は不安を覺えた。里子さんに責められるのではなからうかと思つたからである。
 然し、彼女は其の事に就いてはもう何も云はず、
「和巳さん。お歸りなさい。お務めご苦勞樣でした」
 と云つた。
 
 女の子が大人に成るのは早いんですのよ、と里子さんは云つた。何時の間に彼女は、然樣な言葉遣ひを憶えたのだらう。十三歳の少女は、暫く見ぬ間に、慥かに大人びて了つた。僕は其を嬉しく感じ、少し寂しくも感じた。
 ──Time passed me by. 時は過ぎ去るものだ。
 既に日は暮れて了つた。里子さんを早急に家まで送らねばならない。假令婚約した相手であつても、日がくれた後に女性を連れて歩くのは、天孫族を頂點に戴く日本男子にとつて絶對に有るまじきことである。どんなに墮落しても、日本民族の貞節は守らねばならぬ。何時か觀た芝居のやうに鬼や妖怪は居ないとしても、不逞なる外國人が惡さをしないとも限らない。……僕は其の時、特定の民族を根據もなく差別する己の暴力性に無自覺であつた。全く無自覺であつた。其の無自覺な暴力性は、着實に、僕を内側から蝕んでいつた。
 里子さんと竝んで歩くのは久しぶりだ。──然し、最初の頃は、抑も二人で竝んで歩かなかつた。「日本女子は三歩下がつて從ふもの」とは舊時代の規範である。僕は之を好きではなかつた。嘗て内村鑑三は、創世記のアダムとエヴァの記述を男女同權の根據とした。「夫妻の関係は人類の関係中最も親密なるものにして親子の関係も之に及ばずとなり」と内村先生は述べている(内村鑑三「女性の創造」『聖書之研究』第15号、聖書研究社、1900年)。信州上田は、小諸や安曇野、上越の教友たちが集ひやすく、内村先生の地方傳道に於ても要衝である。ともすれば男性優位に陷りがちな武士階級の陋習を取拂ひ、上田教友會を眞の友愛のエクレシアとする爲に、里子さんと僕との關係は眞に平等でなければならない。
 里子さんの存在は、僕の心のオアシスである。ヨルダン川の水流が古代イスラエルの民を潤したやうに、里子さんに會へば、先刻までのギスギスした感情は、立ちどころに Purify されて了う。世を呪ふやうな言葉を吐いた先刻までの僕は、立ちどころに消滅した。
 僕は了解した。僕の心が荒んでゐたのは、ずつと里子さんに會はなかつたからだ。
 
 里子さんと僕は竝んで歩いた。一歩、一歩と進むたびに、 negative な感情は消えていつた。横濱で出くはした祕密結社のことや、絹次郎がハマつた惡徳商法、アシェラ像のことなど、全部が全部、どうでも良くなつた。繭倉庫の中のものは、明日、片附けて了おう。
 歩きしな、先刻の人が最後に云つた言葉が、不意に腦裏を過つた。──氣をつけてください。和巳さん、貴方は女性を前にすると格段に判斷力が鈍ります。──然し、然樣なことは最早如何でも良い事のやうに思へた。里子さんと二人でゐれば、世界がより鮮明に見える。
 夕暮れの街に、電燈の光が明滅する。水力を基幹とする電力は、今や信州一帶の製絲場、各種動力、そして街の照明に供されてゐる。二〇世紀は明るい。中國の政變が落ち着けば、世界は屹度平和に成るだらう。して街の照明に供されている。二〇世紀は明るい。中國の政変が落ち着けば、世界は屹度平和になるだろう。
 中國の政變!
 僕は一瞬、マーラーカオの表情を思ひ出した。横濱で出會つた、あの中國の美青年。駄目だ。里子さんと二人で歩いてゐる時に、同性に對する戀慕に似た、不埒な感情が湧き上がつてくるとは。駄目だ、駄目だ!
「和巳さん、如何なさつたの」
 と、僅かな異變を察して里子さんは訊いた。不可ない。里子さんが隣に居乍ら別人のことを考へて了つたなどと云ふことが知れたら、殊に、其が男性に對する感情だと知れたら、里子さんだけでなく、ご兩親に其のことが知れたら、此の婚約は、破斷に成りかねない。
 僕は警戒した。他のことより、里子さんとの婚約が破談に成る事のはうが重大事であつた。僕は努めて平靜を裝ひ、里子さんに応へた。
「いや、何でもない。今日は一寸疲れてゐるだけだ」
 里子さんは、僕の言葉に安堵したやうで、未だ完全に納得してゐない。
「和巳さん。……貴方は、横濱で、他の女の人を好きに成つて了つたの?」
「な、そんなわけないぢやないか!」
 僕はギクリとした。里子さんの直感は、半ば當たつてゐたが、半ば外れてゐた。いづれ、中國の美青年に魅了されたなどと云ふ事實を云ふ必要はない。僕はまるで面接試驗の受驗生のやうに、其の場で期待される最適解を即興で組み立てた。
「里子さん。君は何も心配しなくて好い。僕が横濱へ行つたのは、里子さんとの未來の爲ぢやないか。如何して、横濱で他の女性に氣持ちが搖れてしまふなんてことがあらう」
 僕の言葉を聞いてゐた里子さんは、一寸納得するやうな表情をした。だが、更に僕の顏を覗き込んで、詮索するやうな仕草をした。然し、視線はやや逸らしてゐる。相手の目を見て話さない、里子さんの何時もの癖である。
 やがて彼女は、僕を試すやうに云つた。
「ぢやあ、……女の人ではなくて、横濱で出逢つた別の“何か”に心を奪はれてゐる、とか……?!」
 是には僕も一寸困つた。當たつてゐない事もない。里子さんの前で嘘をつくことは出來ない。僕は正直に、横濱で見聞きした事の一部を話すことにした。
「里子さん。僕は横濱で面白いものを見た。合成纖維に關する研究會だ」
「剛性纖維」
「さうだ。だが實は、其の研究會はダミイサアクルで、怪しい商賣をしてゐる團體のフロント組織であつたのだ。其で僕は歸つてきた。何も收穫を得ぬ侭、手ぶらで歸つてきた」
 里子さんは僕の樣子を品定めするやうに見た後、云つた。
「和巳さん、一寸をかしくなつてしまはれたのではないの?」
「すまない。僕も詳しく説明する自信はないのだ! 兔に角、商談は不調に……と云ふより、商談は……里子さん。本當にすまない」
 里子さんはキョトンとしてゐる。ああ、すまない。僕は時々話をとちるのだ。
 僕は、横濱で見聞した事を改めて説明しようかとも思つた。然し、中途半端な説明は、却つて誤解を招く恐れがあらう。僕は考へを變へて、里子さんを安心させるべく、手短に云つた。
「里子さん、大丈夫だ。君は何も心配しなくて好い」
 そして、何時になく氣持を大きくして、更に云つた。
「今囘の横濱行きも、其の後のことも、凡ては里子さんとの幸せな將來の爲だ。里子さんの爲なら、僕は何でもする。だから、何も心配しなくて好い」
 何も心配しなくて好い、と云ふ言葉を僕は二度言つた。根據などない。然し、自分の口で言葉にして傳へただけで、何だか僕自身も根據のない自信を得たやうな心持ちがした。さうだ、何も心配しなくて好い。里子さんとの將來が第一だ。其以外のことを凡て投げ出しても、僕は里子さんとの將來の爲に生きれば好いのだ。
 僕は、里子さんに告げた。
「假令、全世界を敵に囘したとしても、里子さん、僕は君の味方でゐよう」
 其の瞬間、里子さんは、全世界の夢見る少女がする、恍惚とした表情を浮かべた。神に禁じられた果實を食べて了つた時のやうな、背徳の伴ふ悦び。──和巳さん、と彼女は云つた。私、世界で一番幸せだわ。
 世界。僕は無責任に發した己の言葉に陶醉した。さうだ、僕たちは、世界で一番幸せな二人なのだ。里子さんと二人で、里子さんだけを幸せにすれば、僕は他に何もいらない。
 里子さんの瞳を僕は見つめた。里子さんも僕を視てゐる。彼女の瞳の内にある光が、凡てを包んだ。世界は反轉し、今や、里子さんだけが世界であつた。里子さんと僕、自他の境界の消失。外界の事象は、里子さんの存在を中心として、急速に後景へと退いていつた。日々の仕事、學業の夢、義務、責任、締切、納期、……さう云つた言葉は、リアリティを失つていつた。何もかもどうでも好い。里子さんを守るためならば、其以外のことは二の次だ。里子さんを守るためならば、社會的に惡とされる事でも僕はやり遂げる。
 自らの内部に鬼が巣喰ひ始めた事を僕は氣附かずにゐた。過去に聞いた嫌な言葉が、腦裏を一瞬驅け巡つた。
『三年後には、君の戀の物語は終はつてゐる』
『氣を附けてください』
『女性を理想化する君自身の傲慢な精神が、彼女を殺すのと同義だ』
 僕は首を振つて、腦裏を巡る嫌な言葉を振り切つた。もう好い。僕は里子さん以外の存在に關心はない。誰が何と云はうと、里子さんとの將來を阻むものは、僕の敵だ!
「和巳さん、──」と、里子さんが言ひかけた。「どうなさつたの。怖い顏をして」
「何でもない。里子さん、君は何も心配しなくて好い」
 僕は、自分自身の覺悟を反芻した。さうとも、何も心配しなくて好いとも。僕は覺悟を決めたのだから。
 然し、僕自身の覺悟が、其の後の里子さんとの關係に共依存の構造を形作り、二人は何時しか相互確證した獨我論の世界に囚われると云ふことを僕は未だ知らなかつた。
 
 
 第八部 里子さんの女性解放運動
 
 秋の到來。信州には野分が來ない。日本アルプスの山々が、郷土を風災から守つてゐるからである。そんな平穩な信州上田の街に、一寸した騒動が卷き起こつた。
 ある日のことである。突然、里子さんが僕に告げた。
「和巳さん! 私、矯風會に入りたい!」
 貞淑な女學生であつた里子さんは、近頃俄然に野心溢れる活動家精神を宿し始めた。
 僕は里子さんに訊ねた。
「里子さん、矯風會に入つて如何するんだ?」
「決まつてゐるではないですか!」と、里子さんは即答した。そして神懸がかつたやうに演説を始めた。
「今、此の世には、恐ろしい惡が蔓延つてゐます! 特に、家父長制と、其に基づく女性差別は深刻です。ですから、女性差別的な文化を脱するために、私たち女性を主體とするアクションが必要です!」
 目が、本氣である。里子さんは、一度決めたら止まらない。だからと云つて、直情的に思ひついた事を實行に移されると、いろいろと豫後が惡い。以前にも、里子さんは同じやうなことを云つてゐた。曰く、「鬼殺隊に入りたい!」と。然樣な團體の名を僕は聞いた事がなかつたし、多分に少女雜誌の創作であらう。然して、里子さんの鬼殺隊熱は、あつと云ふ間に收束した。そして、今囘の矯風會である。
 平生、里子さんには、或る“惡癖”があつた。即ち、思ひついた“事業”を即坐に始めるのは良いが、飽きたら直ぐに抛り出して了ふ。何度も其を繰り返してゐるのであつた。果たして、今度の矯風會熱も二週間で過ぎ去つた。そして今度は、──
「和巳さん! 私、日本赤十字の名譽總裁に成りたい!」
 里子さんの事業熱は止まる處がなかつた。以前、内村先生の『後世への最大遺物』を讀ませたのが、或いは惡く作用したかも識れぬ。
 其処で僕は、里子さんの熱情を能う限り損なはないやう、優しく、教へ諭さうとした。
「里子さん。君の社會改良に對する想ひは大變素晴らしい。率直に云つて、僕は脱帽する。だが、冷靜に考へてほしい。慈善事業の名譽總裁には、皇族や華族が就任するものだ」
 里子さんは、默つてゐる。何を思つてゐるかはわからない。僕は續けた。
「僕たち一般の臣民は、各々其の所を得て、其々の義務を負ふことが肝要だ。事業への情熱は素晴らしいが、今は勉學の時だ。事業は勉強してからでも出來る」
 と、僕は堅實な提案をした。
 里子さんは相變はらず默つてゐた。一寸不服さうな表情をしたかに見えたが、軈て一言「解りました」と云つた。僕は安堵して、
「里子さん。君は“女らしくて”聞き分けが好い。とても宜しい」
 と口走つた。女らしくて、と云ふ言葉は、何の氣なしに出たものだ。里子さんは終始默つてゐた。僕は、里子さんが僕の理屈に納得したものと合點した。其の日は其で話が畢つた。僕は、婚約者が理性的な女性で良かつたと思つた。ところが、
 翌朝起きた處、事情が急變してゐた。上田市内に、僕に關する不穩な噂が廣まつてゐた。
 
 平生通り、僕は飯島商店でみすゞ飴を買つた後、呑氣に商店街を歩いてゐた。絹次郎が繭倉庫に滿載にした例のものを始末せねばと思ひつつ、僕は、大事なことを先延ばしする惡癖の爲に、日々、其を放置してゐた。あれから隨分經つた。今日こそはと思ひ立ち、製絲場の者に手土産をと思ひ、商店街をぶらぶらしてゐたのである。
 僕は直ぐに其を感じた。商店街の人々の視線が、何時も以上に冷たい事を。
「ほら、和巳さんよ」
 と、誰かが話してゐる。
「昨夜、里子さんを苛めたんですつて」
「最低の外道だわ」
「まさに家父長制の權化ね」
「帝大を出て女に手を舉げるなんて、社會のゴミとしか言ひやうがないわ」
 不信と惡意が、街中を驅け巡つてゐる。僕は直ちに理解した。昨日の僕の語つた正論が、里子さんの神經を逆撫でしたのだ。
「里子さん、──」と、心の中で名前を呼び乍ら、僕は里子さんの家に走つた。然し、里子さんは家に居なかつた。平日の晝間である。里子さんは學校だ! 僕は直ぐに蠶絲專門學校へ向かつた。途中、道を間違へた。思考が追ひつかず、歩行がをかしくなつてゐる。蠶絲專門學校に着いた頃には、酷い動悸がしてゐた。
 里子さんを不快にさせた。僕は、其のことで頭が一杯に成つた。僕の理屈が、里子さんの感情を不快にしたのだ。
 學校の周圍を暫く徘徊したが、考へてみれば、授業中に中に這入るわけにもゆかない。僕は、暫く學内外を歩き續けた。一応、僕は蠶絲專門學校の非常勤講師であるから、附近をうろうろしてゐても不審に思はれる事はない。其の間も、腦裏にあるのは里子さんのこと許りである。と、其の時、
「常田君、──」と、背後から呼びかける聲がした。
 新しく出來た貯繭庫の前である。振り返ると、其の聲の主は、三吉米熊教授であつた。僕は改まつて、三吉教授に頭を下げた。
「先生、今日は」
「今日は。──常田君は、今日は非番ですか」 
 三吉教授は、言葉數は少ないものの、的確な處を訊いてくる。僕は本來、今は繭倉庫に居なければならない筈なのである。僕は、嘘に成らない範圍で、穩當な辯明をした。
「いえ、繭倉庫には是から行くのです。其の前に用事がありましたから」
 三吉教授は、特に言葉を返すこともしなかつたが、一応は納得したらしい。教授は、貯繭庫の入口の方を向き直り乍ら、
「授業は直に終はる時刻です」
 と仰つた。
「はい、──」と僕は返事をしたものの、三吉教授の發語の意を解するに時間を要した。軈て、里子さんに會ふ用事のある事を見透かされてゐる事に氣がついた。 僕は内心、しまつた、と思つた。僕自身の私情で行動してゐる事を三吉教授に認知されてゐる。是はいけない事だ。僕自身の昇進はともかく、里子さんの家に對して不都合のことがあれば、僕は今此處で死なねばならない事態だ。
「先生、──」と、僕は貯繭庫に入らうとする三吉教授を反射的に呼び止めた。教授はゆつくりと振り返つた。然し、僕は投げかけるべき言葉を準備してゐなかつた。
 僕は數秒の沈默の後、
「先生、其では失禮いたします」
 とだけ云ふと、其の場を後ろにした。
 
 後悔が、迹を垂れる。僕の突發的な行動の爲に、私情で動いてゐる事を三吉教授に見透かされた。是は、いけない事をした。後悔が、一歩ごとに迹を垂れる。まるで、沼地を歩くやうに、まるで、眞つ黒な何かが足元を纏はりつくかのやうに、僕の歩行を妨げてゐた。
 改めて、僕は痛感した。僕の後先考へずに行動した結果が、若しも、假にも、里子さんのご家族に惡い風評を與へてしまつたら。……今囘のことは、元はと云へば、僕が里子さんの氣持ちに寄り添はなかつた事がいけないのだ。すべては自己の責任なのである。
 里子さんのご家族に不名譽なことがあつたら、──否、然樣なことは、あつてはならない事だ。
 僕は、今後の言動を戒めるべく心に誓つた。今日のやうに、衝動的に豫定を狂はせて了うやうなことは、今後は斷じてすまい。清も濁も、僕が飮み干せば好いのだ。僕は決心した。すぐに繭倉庫に戻らう。先延ばしの惡癖を止めて、手近な處から、爲すべきことを始めよう。
 早足に驅けようとした途端、見知つた人の姿を僕は認めた。女學生のかやちやんだ。 
「かやちやん、ご機嫌よう!」
 と、僕は快濶に挨拶をした。処が次の瞬間、僕は右の頬を平手打ちに打たれてゐた。
「かやちやん、全體何と云ふのだ?!」
 僕は動搖して、言葉もぎこちない。女子に頬を打たれるなど、一生のうちにさうあるものではない。かやちやんは僕の顏を冷徹に睨み、叫ぶ。
「女性差別主義者!」
 かやちやんは僕を睨みつけてゐる。僕のことを眞個に輕蔑してゐる目だ。何たることだ。一囘りも年下の女學生に右の頬を打たれ、「女性差別主義者」の烙印を押されるとは。然し、此處には慥かに誤解がある。
「かやちやん、如何云ふこと? 是は如何云ふ……」
「しらばくれる氣かや!」
 かやちやんは本氣で怒つてゐる。おおよその察しはついた。里子さんと僕との間に生じた誤解が、女學生たちの間に流布せられてゐるのだらう。惡事千里を走るとは是だ。ともかく、今、かやちやんの誤解を解くのは難しさうである。
 一先づ、僕はかやちやんに呼び掛けた。
「かやちやん、僕は里子さんに話がある。里子さんは今、何處に居る?」
 然し、かやちやんは答へない。完全に、僕のことを女性差別的な文化を推進する女性差別主義者だと看做してゐるらしい。僕は再度訊ねた。
「かやちやん、對話をして呉れ。授業は終はつたんだな?」
「五月蝿い!!」
 かやちやんは石を投げる。是では敵わない。僕は女性の前では非戰主義者である。抵抗する事なく、一旦退散しよう。
 後ろから、聲が追ひかけてくる。
「逃げる氣かや!!」
「さうだよ。石を投げるなんて反則だ!」
「正當防衞だに!」
 是は駄目だ。まるで會話が成立しない。僕が一體何をしたと云ふのであらう? ともかく、僕に關する風評が、女學生の間で可也の程度廣がつてゐる事は判つた。構内を歩く時には、氣をつけて行かう。と、思つた矢先、たつた今授業を竟えたらしい女學生の一群が目に入つた。女學生は談笑してゐる。白晝の光の中を笑顏で語り合ふ處女の聲帶は、十弦の琴を奏でるやうだ。僕は、女學生の中に見知つた顏を見附けて、
「おうい、おやきちやん!」
 と聲をかけた。其の途端、女學生の一群が、僕を視認した。肉食獸を認識した草食動物のやうに。或いは、部屋に入り込んだ害蟲を見つけた時のやうに。其の視線に警戒の色が見られた。のみならず、女學生の一人が僕を見て、叫んだ。
「きやああああ!! 女性差別主義者!!」
 腦天を毆られたやうな衝撃であつた。更に女學生たちは呼応しあひ、僕を指して叫んだ。
「女性差別主義者!!」
「女性差別主義者よ!!」
「構内に女性差別主義者!!」
「變態だわ!!」
「誰か!!」
 騒ぎを聞いて、庭の剪定をしてゐた男も僕を睨んだ。大方、疑惑は既に事實として認定濟みと云ふ雰圍氣である。女性差別主義者として、僕は行く手を塞がれた。
 僕は、「一寸待つて呉れ!」と叫ばうとした。然し、聲が出ない。後ずさりして逃げる許りだ。然し、身體が宙に浮くかのやうに、歩行も覺束ない。群衆と化した人の顏が僕を取り卷く。其の中に、──
 里子さん!
 僕は、女學生の中に立つてゐる里子さんに助けを乞はうとした。だが、直ぐに斷念した。里子さんの女學生側に立つてゐる事は最早明らかである。
「女性差別主義者」
 群衆は僕を侮蔑した。僕は理解した。僕はもう死ぬのだ。風説を鵜呑みにした群衆によつて、僕の魂は弑せられるのだ。然樣悟つた途端、心がふつと輕くなつた。……よかつた。もう、頑張らなくても好いのだ。僕は目を閉ぢて、群衆の意のままに殺されようとした。
「女性差別主義者」
 群衆は尚も僕を罵倒した。僕は目を瞑り、眼前の情勢を見ないやうにした。すると次の瞬間に、邊りの樣子が一變した。誰もゐない。僕は知らない街を歩いてゐるらしい。
 ──ははあ、是は夢だな。
 僕は氣が附いた。是は夢だ。夢の中だ。
 通りで不思議なこと許り起こるわけだ。氣が附いてみれば、先刻から事實の連なりに因果關係がない。短い芝居の連續のやうだ。夢なら、醒めてしまへば如何と云ふことはない。
 然し、是は如何したものか。僕は夢だと氣附いてゐるのに、未だ夢から醒めやらぬ。
 まあ好い。夢が夢なら、好きに生きさせてもらふ。僕は、街を行く處女に欲情した。是は夢だ。僕の夢だ。夢の中なら、好きなやうにやらせてもらはう。
「駄目だ!!」
 と、何處かから聲が聞こえる。誰だ? すると再び場面が移り、僕は法廷に連れ出された。
 裁判長は告げた。
「被告人常田和巳は、卑猥な夢を見た罪で死刑!!」
 裁判は直ちに結審した。抗辯の機會はない。僕は即坐に斷頭臺へ引かれ、其の場で首を飛ばされた。僕は短い生涯を終へた。
 ──是も、夢だ。死んでも夢。夢亦夢。未だ終はらないのか。
「……君。……和巳君!」
 と、何処からか、僕を呼ぶ声が聞こえる。誰だ。何者だ。
「……和巳君! 和巳君! ……起きろ!!」
 真上から絹次郎の声が落ちてきた。僕は「うぎゃあ!!」という声を上げた。自分の声に驚いて起きたようなものだ。
 絹次郎は云つた。
「和巳君。君はアカデミックポストを首に成つた」
「な、なんだつて!?」
 夢だけど、夢ぢやなかつた。さつきまで見てゐた夢の話が、正夢に成つたかのやうだ。……否、抑も、どこからが夢で、どこまでは現實であつたのか。起き拔けの僕の思考では、完く判別がつかない。
「如何して僕が首だ」
 と、僕は訊ねた。絹次郎は即答した。
「それあ、君が女性差別主義者だからだ」
 女性差別主義者! 先刻まで見てゐた夢の話ではないか。ひよつとして、正夢と云ふ奴だらうか。惡夢だ。
「なんで僕が女性差別主義者なんだ?」
 と訊ねると、絹次郎は莫迦にしたやうな目で応へた。
「知らんのか? 君に對してオウプン・レタアが出てゐる」
「オウプン・レタア?!」
 
『オウプン・レタア 女性差別的な陋習を脱するために
 
 信州上田の製絲業に關はる全ての諸君へ。先日、氣鋭の生絲商人にして蠶絲專門學校非常勤講師である常田和巳君が、アカデミックポストから排除せられました。原因と成つたのは、常田君の女性差別主義…』
 
「謀略だ……!!」
 と、僕は思はず叫んだ。如何して、一體如何して、斯樣なものが起草せられ、市内全域に配布閲覽されてゐるのだ。一體、誰の策謀だと云ふのだ。
「絹次郎、是は誰が書いたのだ?」
「下に差出人の名が書いてあるだらう」
 見れば、慥かに、大仰な聲明文の下に、差出人の名が書いてある。……神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝靈、孝元、開化……
 是は?!
「馬鹿野郎!」と、今度は誰かが叫んだ。「みだりに讀み上げるな」
 其の途端、場面が變轉した。──是も、夢か。
 助けて呉れ! 僕は夢から出られなくなつた。夢から醒めても、夢なのだ。何處まで行つても夢なのだ。世界が無限に後退し、自己の内面だけを永遠に反復する。──内面? 然し、其は空虚な影に過ぎない。僕は何處だ。何處にゐる! 誰か! 誰か居ないか?!
「和巳さん、──」
 と、誰かの聲が聽こえてくる。誰だ。判らない。然し、聲は慥かに響いてくる。和巳さん、和巳さん、……軈て、其は自分自身の聲である事に氣が附いた。だが、僕は何處だ。
「僕は何處だ!!」
「其處になければないですね」
 此の聲は!
 横濱で出會つた通行人である。夢の中にまで來やがつた。
「其處になければないですよ」
 と、其の人は繰り返した。僕は訊いた。
「おい、是は僕の夢だ。如何して勝手に入つてきた?」
「貴方だつて、他人の夢に出てゐるでせう。夢とは然う云ふものですよ」
 復、禪問答のやうなことを始めようと云ふのか。然し、夢の中とは云へ、僕の認識は急速に醒めていつた。僕は訊ねた。
「其より、僕は先刻、白晝に婚約者の元へ向かつてゐた筈なのだ。其なのに、何時の間にか、夢の中に入り込んでゐた。是は如何云ふことだ?」
「貴方はもとより夢の中を歩いてゐるやうなものでしたね」
 と、其の人は云ふ。もう判つてゐる。最早、凡ゆる者が、僕を夢の中でも現實でも攻撃してくるのに違ひない。僕の所業を非難する爲に、然う云ふ難癖をつけてゐるのだ。
 然うして、たつた今、僕の腦内に起こつた疑念や確信も亦、對面してゐる其の人に聞き取られ、手に取るやうに傳はつてゐるのである。
「貴方は、一體何時から、自分が夢の中に居たかご存知でしたか?」
 と、其の人は云つた。
「判らない」
 と、僕は応へた。内省してみると、もうずつと前から意識がぼんやりしてゐる氣もする。其は何時から? 横濱で奇怪な體驗をした時から。否、千曲川の納涼船に乘つた時から。否、──
「矢張り、貴方は女性を前にすると判斷力が鈍るやうですね」
「うるさい!!」
 と、僕は叫んだ。他人から言はれたくない言葉だ。其なのに、如何して自分の夢の中でまで言はれねばならぬのか! 僕は反射的に、其の人に毆りかからうとした。處が、夢の中では身體の自由が利かない。僕の身體は、中空を無樣に漂ふ許りだ。
 僕は思はず、叫んだ。
「うわあ!! た、助けて呉れえ!!」
 すると、目の前で僕を見てゐた其の人は、はつはと嗤つて、云つた。
「常田和巳さん、貴方は本當に無樣ですねえ。自分自身の夢の中で、自らの自由を失つて、然樣な情けない姿を晒してゐるとは」
 そして、其の人は、僕の腦裏に、直接、囁きかけた。
「見苦しいですねえ。無樣ですねえ。初めから生まれて來なければ好かつたですねえ」
「うるさい!! 默れ!!」
 と、僕は更に叫んだ。抵抗しやうとした。だが、僕はバランスを失ひ、夢の中で溺れた。
「うわあ!! 溺れる!! 誰か!! 助けて呉れえ!!」
 僕の情けなく足掻く樣子を見て、其の人は更に笑ひが止まらないらしい。
「はつはつは、和巳さん。莫迦ですね。貴方は眞個に莫迦です。然し、安心してください。夢の中で溺れて死ぬ者は無いのです」
「何?!」
「落ち着いてください。元々、夢では天地も決まつてゐないのですよ。ご覽ください、──」と、其の人はするりとひつくり返つて、「そら、平氣でせう?」と云つて見せた。
 慥かに、其の人は逆さに成つても平氣らしかつた。いづれ、所詮僕の夢だ。僕の夢の中であるから、想像力の及ぶ範圍など、知れたものである。
 僕は訊いた。
「夢から醒めたいが、如何すれば好い?」
「起きれば好いでせうね」
 と、其の人はあつさり答へた。然し、如何にも夢から醒めやらぬ。是を如何にかしたいのだ。
 僕は續けて、其の人に訊いた。
「おい。抑も、是は僕の夢だ。如何して、斯樣な滅茶苦茶に、成つてゐるのか?」
「貴方の想像力の缺如が原因でせう」
 と、即坐に答へが返つてきた。何とも、忌々しい夢である。早く起きて、平生の、平穩な日常に戻りたい。
「おい、此の、──」僕は、其の人に呼びかけようとした。落ち着いて呼びかけたいが、抑も僕は其の人の名を知らない。「あの、其の、……君の、名前は?」
 すると、其の人は今日一番に大笑ひをして、
「私の名を知つて如何すると云ふのです?」
 と云つた。僕は、
「名を呼べなければ、不都合ではないか」
 と答へた。其の人は、相變はらず不遜な表情のまま、フフンと笑つた。夢の中で、上下逆の姿勢のまま、フフンと笑つたのだ。何と云ふ餘裕であらう。僕は僕で、自分が何處に居るのかすら判らないと云ふのに。
「兔に角、君は何の積りで、僕の夢に出て來るのか。いや、其はもういい。僕は是から如何すれば好いか。前向きな話をしよう」
 すると、其の人は即答した。
「では、起きなさい。自分の意思で」
「出來る事ならさうしたい。だが、僕は夢から出られないのだ」
「和巳さん、──」と、其の人は急に眞顏に成つた。「貴方に起きる氣があれば、貴方はもう起きてゐます」
 相手が急に眞面目に成つたものだから、僕は言葉を繼げなかつた。其の人は續けた。
「和巳さん。貴方には問題の責任を他人に押し附ける性癖がありますね」
「然様な事は、……」
「ありますね。間違ひありません」
 と、其の人は念を押した。本當に、不愉快な夢だ。然し、言はれてゐる事は、尤もな事である。僕は、夢の中で自己の抗へない事實を突きつけられ、うつかり目を覺ましさうに成つた。
 其の人は云つた。
「和巳さん、目を覺ましていなさい」
 其は、聖書の一節であつた。途端に、僕ははつきりと目を覺ました。
 僕は街を疾走してゐた。暗い道を。夜なのか、朝なのか。僕はひたすら走つてゐた。腦裏に、誰かの聲が殘響する。──和巳さん、目を覺ましていなさい。決斷の時が何時なのか、其は貴方には判らないのですから。其の時が來て、慌ててはいけません。だから、目を覺ましていなさい。
 空の端が白い。夜明けである。僕は何處へ走つてゐるのか?
 一つしかない。里子さんの所に、決まつてゐる……!
 僕は里子さんの家に走つた。早朝である。里子さんは家にゐる。と、突然、目の前に人影が現れた。僕は其の正體を見誤らなかつた。
「里子さん」
「和巳さん!」
 間違ひない。惡夢は過ぎ去つた。里子さんは僕の來る事を事前に豫期し、家の前に立つてゐた。
「里子さん、──」と、僕は呼びかけた。「里子さん。僕は君によくない事を云つた。折角、君が女權運動に目覺めたと云ふのに、僕が忠言などすべきではなかつた」
 里子さんは默つてゐる。僕は續けた。
「惡い夢を見た。里子さん、君との關係を壞したくない」
「和巳さん、私も惡い夢を見ました」
 と、里子さんは云つた。能く分かつてゐる。里子さんの本心を汲まず、僕が惡い事を云つたからだ。
「里子さん。是からは、君の言ふことに意見する事は絶對にしない」
「和巳さん。私ももう二度と我儘は云ひません」
 長い長い惡夢を拔けて、今、里子さんと向き合つてゐる。僕は感極まつた。感極まつたあまり、日本男子として少々輕率な言葉を吐いた。
「僕の人生は、君の人生の爲にある。どうか、君の爲に奉仕させて呉れ!」
 處が、目の前にゐたのはマーラーカオであつた。
 中国の美しい青年は、僕に応へた。
「和巳さん、私も同じ氣持ちです」
 其が、最後の夢であつた。
 
 僕はすつかり目を覺ました。牀の上で、惡い汗をかいてゐた。
「何だ、今の夢は……」
 部屋の外は明るい。白晝であるらしい。寢過ごして了つたやうだ。
 長い夢であつた。否、夢は元來、斷續的なものである。もしかしたら、眠つてゐる間、深い眠りと、淺い眠りを繰り返すうちに、短い夢を澤山見たのかもしれない。そして、夢の内容は、最早、はつきり思ひ出せない。
 其でも、後味の惡い感覺だけは殘つてゐる。
 里子さんに告げる筈の言葉は、記憶の斷片の中で誤配された。夢の中で、僕は中國の美青年に愛の告白をした。
「夢には意味がある、か?」
 僕は獨り言ちた。男色は、内村先生の戒める處であつた。聖書の律法は其を禁じる。少なくとも、僕はさう理解してゐた。
 だが、マーラーカオの微笑が腦裏から離れない。中國の美青年の相貌。其は蒸菓子の甘い匂ひのやうに、僕の腦裏を充滿していつた。
 僕は、如何にかなつて了つたのだらうか?
 聖書信仰に立つ限り、男子に戀慕の情を抱くなどと云ふことは、あつてはならない。
 あつてはならない事が、僕の腦裏を不法に占據してゐた。
 外を見た。部屋の外は明るい。拍子拔けするほどに平和である。庭木に鳥が遊んでゐる。日本は平和だ。此の儘、何時迄も平和が續いて欲しいものである。
 里子さんのことが一寸氣に成つたが、今はまだ眠つてゐたい。外界の事象を遮斷しておきたい。だから、今は不貞寢しやう。
 眠つてゐる間に、凡ての物事が上手く作用して、萬事丸く收まつて呉れたら好いのに……!
 僕は、然樣なふてぶてしい願望さへ抱いた。
 
 
 第九部 男同士の絆、女同士の絆
 
「ほら、和巳さんよ」
 と、今日も誰かが噂話をしてゐる。
「可哀想に。不貞寢してたらダニに食はれたんだわ」
「何をやつても、彼の人は駄目ね」
「一體何が樂しくて生まれて來たのかしら」
 何とでも言ふが好い。君たちに僕の悲しみは永久に理解出來ない。
 
 散々な夢であつた。僕はもう、眠るのが怖くなつた。あの日以來、僕は隨分臆病に成つた。里子さんには、もう、意見はするまい。里子さんに意見した許りに、あのやうな惡夢に苛まれたのだ。
 僕は、今後、女性の權利を最大限に尊重する女權主義者に徹しよう。
 だが、僕は思ひ違ひをしてゐた。女性の主張を逐語的に全肯定する事が、女性の權利を尊重する事と同義ではないと云ふ事に、僕は未だ氣附いてゐなかつた。此の些細な思ひ違ひが、僕の道行を大きく誤らせる事に成るとは、主ご自身の他、誰も知り得なかつたのだ。
 
「和巳さん! 私、自轉車に乘りたい!」
 ある日、里子さんは云つた。慈善家としての事業を早々に抛り出した里子さんは、今度は、一部の女學生が通學に利用してゐる自轉車に食指を伸ばしたのである。
 然し、馬車で通學してゐる里子さんに、自轉車は不要だ。
「里子さん、君の氣持ちは能く判るよ。──」と、僕は流石に諫めようとした。「だけど、君には馬車があるぢやないか。專用の馭者も雇つてゐる。自轉車と云ふのは、里子さんのやうに自分の馬車を持つことの出來ない、御一新以後に成り上がつた人々の乘り物だよ」
 僕は、成る可く、里子さんの自尊心を滿たせるやうな説明をした。さうすれば、里子さんも馬車で通學している自己自身を誇りとして、わざわざ自轉車になど乘りたがる事はないだらう。其のやうに考へたのだ。
 處が、僕の目論見は、里子さんの神經を逆撫でした。
「和巳さんのおばかむし!! 私が自轉車を欲しいと云つたら、默つて自轉車を買つてくださるべきではありませんか!! 其が優しさではないのですか!!」
「里子さん。待つて呉れ」
 然し、ひとたび導火線に火のついた里子さんの癇癪は、止まる事がなかつた。
「私は唯、自轉車が『欲しい』と言つただけではないですか!! 待つて呉れとか、偉さうな説教とか欲しいと云つた覺えはないんですよ!! 其なのに!! どうして、女の人をさうやつて虐めるんですか!!」
 僕は、里子さんの云つてゐる意味が判らなかつた。唯、僕自身の非難されてゐる事實だけを呑み込むことができた。理屈は判らぬが、兔も角、里子さんは僕に怒つてゐる。
「里子さん、──」
「また御託を竝べる氣ですか。謝つてください! 私は傷ついた!」
 何と云ふことだ。僕は里子さんを傷つけて了つた。
 理屈など、如何でも好かつた。里子さんの感情を受け止めただけで、僕の思考は停止して了ふ。まして、「傷ついた」と云はれたら、其が僕の落ち度である事は必定である。里子さんを傷つけるものは、誰であれ、排除せねばならない。傷つけたのが僕ならば、──
 里子さんは、良家の一人娘である。里子さんは、生まれてから是まで、自分の願ひが盡く叶へられる人生を歩んできたのだ。ご兩親も、馭者も、家の中のお手傳ひの人も。僕は、里子さんの人生で初めて思ひ通りに成らない存在として立ち現れた事に成るのだらう。
「里子さん。僕が惡かつた」
 と、先づは謝罪した。然し、里子さんの感情は容易に收束しなかつた。僕は、兔も角、直ちに自轉車を買つてくる事、今後一切、里子さんに意見などはしない事をあらためて誓約した。其でも、里子さんの機嫌は良くならなかつた。話は其で終はる筈もない。後日、僕は里子さんの母親に呼び出され、鄭重にお願ひされた。
「何分我儘な娘で御坐いますから、一つ宜しくお願ひします」
 と云ひ、お母さんは金一封を手渡してきた。其のお金で、一番良い自轉車を買つて來るやうに、と云ふ話だ。
 其だけではない。里子さんのお母さんは、禮儀正しく、次のことを話し始めた。
「わたくしどもの家では、奢侈品を手に入れる際、かならず東京日本橋の三越まで買ひに行きますの。ですから、今囘は和巳さんが東京へ行つて、娘の自轉車を買つてきてください」
 突然の無理難題であつた。先日の横濱行きだけでも僕には大仕事だつた。處へ、今度は半ば私用の爲、東京まで行くやうにとの命令である。抑、三越は呉服屋である。自轉車など取り扱つてゐるだらうか?
 とは云へ、お母樣の仰る事には思ひ當たることがあつた。
 數年前から、日本橋三越では、商品の配送に自轉車を用ゐるやうに成つた。以前は徒歩或いは荷車で配送してゐた處、當世風の服裝をしたメッセンジャーボーイによる自轉車での配送は、衆目を集める處と成つた。多分に、お母樣は新聞か何かで其を識つたのだらう。だが然し、配送に自轉車を用ゐてゐると云ふことと、商品として自轉車を取り扱つてゐるかどうかは關係がない。其処で、僕は一先づ、妥當な提案をした。
「あの、義母樣。電信で注文をしませうか。さうすれば、わざわざ東京まで行く必要はない筈です」
 すると處が、其の途端、義母樣の顏が嚴しくなつた。
「和巳さん。今此處で死にますか!」
 僕は狼狽した。陣内家の女性は、何かと「今此處で死ね」と云つたやうなことを云ふ。最早武士の時代ではないが、陣内家は二十一世紀に成つても同じ氣風を保つだらう。義母樣は云つた。
「和巳さん。是は、貴方の覺悟!を見るものですよ。東京へ行き、苦勞して娘の自轉車を買つてくる。其が大事です。電信でお手輕に買ひ物をして、心がこもるものでせうか」
 覺悟!に、アクセントが附いた。力がこもつてゐた。覺悟。其の言葉を聞いた途端、僕の身體に電流が走つた。覺悟。里子さんと結婚する覺悟。僕は了解した。自轉車其のものが大事と云ふだけではない。此の話は、僕の力量や思ひが里子さんに相応しいかどうかを見るもので、僕にとつては自分を賣り込む好機なのだ。僕の内部に野望が渦卷く。躁狂と成つた僕を止められる者は、何もない。
「分かりました。理屈を言つてすみませんでした」
 と、僕は告げ、直ちに東京行きの準備を始めた。義母樣は今更、「三越に自轉車賣つてたかしら」と云つたが、僕はもう動き始めてゐた。
 直ちに東京へ行き、三越で自轉車を買つてくる。里子さんの爲に視野狹窄と成つた僕は、此の目的の爲に行動する機械と化した。汽車の時刻を先づは調べた。急げば、今日の夕刻に上田を發ち、明日には東京に着く筈だ。
 問題は、蠶絲專門學校の講義であつた。明日は授業のない日だが、今日の夕刻の講義がある。僕は裕福な家柄であるから、非常勤講師をしてゐるのは、多分に趣味の範疇に他ならない。とは云へ、無斷で休講にするわけにもいかない。講師職はコネクションが物を云ふ。疎かにすると、市中に惡評が廣まる。
 其処で僕は一計を案じた。
 汽車の時刻を見た処、講義を中坐すれば、出發に間に合ふ。何とか理由をつけて、自習にして了えば好い。
 だが、今日の夕刻の講義である。もう數時間の後の話だ。いきなり、只、「自習にする」と云ふのは後ろめたい心持ちがする。
 僕は、教室にアシェラ像を招き入れた。
「今日の授業は、此の……アシェラ像が監督します。皆さんには、今から配るレジュメを讀んでいただき、──」
 と、僕は尤もらしい説明をした。偶像に何の力もない事は判つてゐる。唯、教卓に置いておけば示しに成る。他の先生が通りがかつても、此の像を置いておけば、僕の授業を放擲したわけではない事は傳はるに違ひない。僕は自習の内容を説明した後、最前の席の女學生に云つた。
「おやきちやん、授業が終はつたら、アシェラ像を囘收して、繭倉庫まで屆けて呉れまいか」
 女學生は、何もものを云はなかつたが、頷いたやうな、俯いたやうな、曖昧な仕草をした。僕はとり敢へず仕事を頼んだと思ひ込んで、直ぐに驛へ向かふ心づもりをした。
「では、學生のみんな。しつかり自習して呉れ。くれぐれも私情で授業を疎かにせぬやうに」
 自習を始める女學生たちを教室に殘し、僕は廊下に出た。何だか惡巧みをしてゐるやうな、後ろめたい心持ちがする。何だかんだと理屈をつけて、僕は授業よりも里子さんの自轉車を優先したのだ。其で好いのだ、と自分に言ひ聞かせるが、矢張り後ろめたさは遺る。
 好いのだ。凡ては、里子さんの爲だ。
 僕は自分に言ひ聞かせた。一歩、亦一歩と進むたびに、少しづつ、自分の良心が麻痺していくのを感じた。──好いのだ。凡ては、里子さんの爲だ。僕は愛する女性の爲に果敢に行動してゐるのだ。何の惡い事があらうか。
 何の惡い事が、あらうものか。
 僕は、自己自身を正當化するうち、一歩、亦一歩、自らの足取りが重くなるのを感じた。僕の里子さんの爲に行動するのは、他者への絶對的獻身なのだ。自分では、其のやうに信じてゐる。然し、其が欺瞞である事も自覺してゐる。
 一人の女性に對する愛の爲に、僕は、學問と教育を蔑ろにしようとしてゐる。教職は、元來、僕自身の羨望して已まない職業であつた筈だ。然り、其は後進を導く聖職に他ならなかつた。其れだのに、今の僕は、奉職の志よりも個人的な感情を優先しようとしてゐる。
 汽車の客席に坐つてからも、何處よりか、良心の呼び聲がする。帝國日本トップレベルの若手研究者として將來を囑望された僕が、今や、女性の好意を得る爲、學問の道を踏み間違へようとしてゐる。──教室に戻れ! 良心は叫ぶ。然し、僕は聞こえぬふりをした。戻れ! 良心は尚も叫ぶ。然し、僕は敢然、自己の良心と訣別した。愛する者の爲とあらば、僕は夜叉に成る。すさみきつた良心など、かなぐり捨てて了つても構はないのだ。里子さんの喜ぶ顏を見られるなら。ささやかな良心になど、一體何が出來ると云ふのか。
 僕の内部で、何かが、壊れる音がした。一歩、亦一歩、僕は破滅への道を進んでいく。
 
 翌日東京へ着いた僕は、眞つ先に日本橋三越を目指した。思つてゐた通り、呉服屋の三越に自轉車は賣つてゐなかつたが、近所の自轉車屋を見つける迄に時間はかからなかつた。
 店の人は、なんだかいかがわしい男であつた。
「女學生に自轉車? 輕薄だねえ!」
 僕は店の人の言葉に直接応へず、婚約者のご入用である旨を傳へた。婚約者。天下無敵の言葉である。店の男も改まつて、
「そんぢや、とつておきのを出してあげよう」
 と、店の奧に引つ込んだ。長らく待つたのちに出てきたのは、見窄らしい自轉車であつた。僕は思はず、「何だ、ガラクタぢやないか」と叫んだ。處が、店の男は上機嫌に、
「是は天下の名車、パリカール三世ですぞ!」
 と宣明した。
「パリカール……三世」
「さうです。一九世紀、印度から佛蘭西へ旅をした或る母と子の二人が連れた驢馬の名です」
「三世なのか」
「さうです! と云ひますのも、驢馬のパリカールは、脚力の強さは無論ですが、葡萄酒好きの性欲絶倫。其で、今では世界中に、パリカールの子々孫々が、産めよ増えよ全地に滿ちよと」
「世界中に」
「さうです。其のパリカールを記念して……」と、店の男は自轉車に目を遣り、「天下の名車、パリカール三世號が作られたのです!」と云つた。
 然し、如何見ても、只の見窄らしい自轉車である。僕は其より、店の壁に固定せられてゐる、優雅な婦人向け自轉車に注目した。店の男も僕の目線に氣が附いて、
「ああ、其はオーレリイ號ですよ」と云つた。
 オーレリイ! 僕の心に、そよ風が吹いたやうだつた。オーレリイ、オーレリイ號。是こそ里子さんに相応しい自轉車の名だ。僕の腦裏には、青いワンピースの服を着て、自轉車に乘る美しい少女の姿が描かれてゐた。此の優雅なデザインの自轉車を買つて歸れば、屹度、里子さんは喜ぶのに違ひない。
「自轉車屋さん。僕は是を買ひます」
「ぢや、パリカール三世號はいらないんですか?」
 店の男は、未だ何か言ひたげである。然し、僕が欲しいのはオーレリイ號だけである。
「一臺あれば好い。あれは本統に天下の名車か?」
 と、僕は改めて訊ねた。すると店の男は、
「いやね、一寸話を盛つただけですよ。尤も、二千年前に斯う云ふ實例があつたと謂ふではありませんか? くたびれた小さな驢馬を『主がご入用なのです』と云つて、」店の男は、一瞬、僕の顏色を伺つた。が、僕の眞顏に成つてゐるのを看て取り、「いやまあ、傳説の類かも知れませんけどね」と云つて話を終へた。
 傳説なものか。主のエルサレム入城は歴史的事實である。其にしても、此の自轉車屋は、智識だけは豐富らしい。當世の基督教指導者、就中、植村正久先生などは、「我輩の教會に車夫、職工の類はいらない」と公言してゐるほどであるし、内村先生の教友會も、其の主たる構成は、各地の地主階級や校長などの富裕層である。其処へ行くと、流石、東京の自轉車屋は教養がある。
 僕は、自轉車屋の男を少し見直して、訊いてみた。
「東京の女學生は、矢張り當世風かね。東京の女學生は自轉車に乘るかい?」
 すると、男は一寸奇矯な顏色をして、
「女學生に自轉車! 今に規制されるかも知れませんぜ」
 と云ひ、グヘエッ!と笑つた。規制。其は亦、如何して? ……と、僕の訊ねない内に、店の男は何だか嬉しさうに解説を始めた。
「自轉車の振動がサドルを傳つて、女學生の陰部を刺戟する事により、性的奔放を助長すると云ふ話があるんですよ」
「然樣な、莫迦な!」
 と、僕は云つた。あんまり荒唐無稽なのに驚いたし、つい先刻、教養のある自轉車屋だなどと思つた事を反省した。然し、自轉車屋は自説を補強する智慧を更に語つて、僕もだんだん不安に成つてきた。
「其は、學術的な裏附けがあるのだらうか?」
 と、僕は訊いた。店の男は、
「觀察的事實ですよ」と云ひ、自身の目で見た事實に即してゐる、と強辯した。
 僕は内心、深刻な懸念を抱いた。──自轉車の振動がサドルを傳つて、女學生の陰部を刺戟する事により、性的奔放を助長する。若しも其が事實であつたら、里子さんの貞操が危ない。
 だが、僕は直に正氣を取り戻した。全く、くだらない與太話だ。餠は餠屋で、自轉車は自轉車屋である。商品でも、ニウズでも、何でも取り扱ふ Convenient なStoreなどあり得ない。自轉車屋は自轉車には詳しいが、專門外のことは的外れだとしても不思議はない。僕は、氣を改めて、オーレリイ號を買つて歸る事にした。店の男は、一応、と云つた風で、
「パリカール號は、要らないんですか?」
 と訊いてきたが、僕は直ぐに「一臺あれば十分だ」と答へた。一瞬、里子さんと二人で自轉車を漕ぐ自分の姿を思ひ浮かべた。だが、オーレリイ號の價格だけで、豫算を既に超過してゐる。里子さんのお母さんは、必要なお金を渡して呉れたが、家に歸つたら、僕の藏書を幾分か賣らなければならないだらう。本來、僕は書物と云ふものを崇敬してをり、一度入手した本を手放した事がない。然し、構はない。里子さんがオーレリイ號に乘つて、信州上田の街を颯爽と走り拔ければ、其だけで、僕の世界は輝くのだ。里子さんが喜んでくれたら、僕は、其で好いのだ。帝大在籍中に集めた洋書の類を賣つて了えば、多少の價値に成るであらう。
 僕は、里子さんがオーレリイ號に乘つて、喜んでゐる顏を想像した。里子さんの笑顏を想像した。──里子さんが、僕の人生の凡てなのだ。里子さんだけを凝視めてゐる。出逢つた日から、今でも、ずつとだ。里子さんさへ側にゐれば、僕は、外に何も要らない。
 先刻買つた自轉車を携へ、僕は上田に戻つた。汽車に自轉車を積めるか否かで車掌と揉めたが、偶然通りすがつた豬の皮を被つた少年が抱へていくと云ふから助かつた。上田までは相當の距離があるが、少年はひと時も休まずに汽車と竝走した。無論、謝禮を渡した。
 往復の汽車賃を含め、今囘の東京行きは、豫想よりも大きな出費と成つた。殊に、歸りは氣が大きくなつてゐたから、僕は二等に乘つたのである。だが、里子さんが喜んでくれるなら、然樣なことは些細なことに過ぎない。早く、オーレリイ號を里子さんに屆けよう。
 とは云へ、既に日は暮れかけてゐる。先づは落ち着いて、家に戻り、明日の用事を濟ませてから、夕刻に里子さんの家に行かう。使ひを遣つて歸宅の旨知らせようかとも思つたが、疲勞が勝つた。僕は家に着き、オーレリイ號を軒先に置いた後、直ぐに眠つて了つた。
 夢も見ぬほどの入眠。深い眠り。死んだやうな時間。斯かる眠りこそ、本統に心地好い。……
 
 翌日、僕は自宅で時間を潰した後、蠶絲專門學校に向かつた。授業を終へた里子さんと門の前で落ちあうのである。東京で贖入した自轉車、オーレリイ號は、信州上田の街竝みに映える。里子さんは喜ぶのに違ひない。僕は大切な自轉車を押して歩き、學校まで來た。
 授業はもうじき終はる頃合ひである。僕は、我先にと教室を出て門の中から殺到する處女の躍動を空想した。だが、其の大半は、僕の關心の埒外である。里子さんだけが、僕の意中の存在である。僕は想像した。門の前に待つ僕を里子さんが見つける瞬間の樣子を。
 里子さんが僕の姿を認め、ぱつと笑顏に成る。僕は手を振つて、里子さんに近附く。やがて、僕の押して歩く眞新しい自轉車に氣附いた里子さんが、思はず顏を赤くして、……
 然樣な妄想をしてゐるうちに、講堂から里子さんが出てきた。友人と何か喋り乍ら。
「里子さん」
 と、呼びかけてみたものの、女學生たちのけたたましい笑ひ聲に、僕の聲はかき消された。事前の僕の想像と違ひ、里子さんは僕の存在に氣附かない。漸く僕の眞近に來た處で、里子さんは僕の姿を認めた。
「里子さん」
 改めて、僕は呼びかけた。里子さんは聞き取れなかつた。「里子さん」と、三度目に呼びかけた時、漸く聲が屆いたらしい。其の直前まで、里子さんは隣の女學生と何か快濶に話してゐたから、不意に僕の現れたのに少々驚いてゐた。
 僕は、傍らの自轉車を得意げに見せつけ、「昨日歸りましたよ」と告げた。里子さんが莞爾と笑ひ、オーレリイ號を一瞥して、嬉しさうに「和巳さん、ありがたうございます!」と言ふ樣子を想像した。然し、現實は全然違つた。
 里子さんは、自轉車のことなど關心を持たぬ樣子で、僕に告げた。
「和巳さん。私、物語倶樂部をつくるわ」
「物語倶樂部」
 ええさうよ、と云つて、里子さんは、友達と話し合つたと云ふ倶樂部の構想を饒舌に語り出した。里子さんの關心は、自轉車から空想の世界に移つてゐるらしかつた。
 里子さんの構想を聞き乍ら、僕は半ば放心してゐた。僕の努力は無駄であつた。
「女學校の仲間と誓ひ合つたの。私たち一同、女流作家として一世を風靡して、青鞜社を凌ぐ社會現象のうねりを作り、ペンの力で、全世界の女性差別を撤廢するの!」
 悠々と語る里子さんは眩しい。迚も眩しい。元來、僕も女權擴張には賛成である。だが、──だが、今日と云ふ今日許りは、女流の才とか、女性差別の撤廢だとか、然う云つた言葉を虚しく思はぬ譯はなかつた。僕の東京行きは全然評價されず、里子さんの爲に買つてきた自轉車は、一瞥のうちに無視せられた。里子さんが欲しいと云ふから、買つてきたのに!
 とは云へ、是で怒つたら駄目だと云ふことは、流石の僕にも理解出來てゐた。若しも、是で怒つたら、里子さんとの結婚が駄目に成つて了ふ。
 僕は、努めて平靜を裝ひ乍ら、彼女に応へた。
「さ、さうか。物語倶樂部。里子さん、本統に君にぴつたりだね!」
 ぴつたりだね、と云ふ語感が良かつたのか、里子さんは、是からつくる物語倶樂部の構想を快濶に語り出した。僕は、里子さんが氣まづい思ひをせぬやうに、出來るだけ、自轉車を彼女の視界から隱したかつた。然し、抑も彼女は、もう自轉車にまつたく關心がない。
 僕は、里子さんが語る物語倶樂部の計劃を聞き乍らも、心既に此處にあらず、と云つた感じであつた。無理矢理に豫定を空け、東京日本橋まで自轉車を買ひに行つた、僕の努力は、一切報われる事がなかつた。──だが、僕は同時に安堵してゐた。あの自轉車屋の話。「自轉車の振動がサドルを傳つて、女學生の陰部を刺戟する事により、性的奔放を助長する」と云ふ、あの與太話を思ひ出した。無論、僕は合理主義者である。然樣な話を信頼する氣もなかつた。とは云へ、今は自己のありさまを正當化する根據を心の内に求めてゐた。里子さんが、自轉車への興味を失くして、少女らしい物語の世界に遊んでくれて好かつた。僕は、然樣な性別二元論に基づくステレオタイプな臆斷を下しさへした。自己の努力が無視せられた現實を見ない爲に、無意識のうちに正當化しようとする心理が働いたのだ。
 里子さんは、快濶に、
「私たちの物語倶樂部は、男子禁制なの。ですから、幾ら和巳さんといへども、私たちの倶樂部に參加する事は出來ませんわ!」
 と告げた。好いだらう、好い事だ。男子禁制の趣味ならば、惡い蟲の憑く懸念もない。僕は、心から安堵した。
「里子さん、好いぢやないか。女の子は女の子同士、仲良くすると好い」
 僕が月竝みな激勵をすると、里子さんは本氣にして喜んでゐた。で、其の流れで、僕に追加の要求をした。
「物語倶樂部の部室には、洋書を澤山置きたいの。和巳さん、洋書を下さらない?」
「洋書を……」
「さう。物語の雰圍氣に滲る爲に、部屋中に洋書を置くの。和巳さんは、もう洋書を讀まないでせう? 不要に成つた洋書を私たちに下さらない?」
 里子さんが云つてゐる事はわかる。だが、僕は、帝大時代の學業を輕んじられたやうな氣がした。慥かに、僕は帝大時代の學業を擲つて了つた。文章の世界に遊び、世界の精神に觸れる勇ましき高尚な生涯からは、ドロップアウトして了つた。洋書の類は、本棚に陳列した侭、もう暫く讀んでゐない。だが、其のことを直截に問はれると、正直な處、胸が痛むのだ。
 抑も、僕の大學に進んだのは、僕の兩親の過剩とも云ふべき期待に煽動せられたる處が大きかつた。にもかかはらず、僕は官吏にも成らず、代議士にも成らず、實業家にも成らず、畢竟、惱みがちな文學青年に終始した。其のことを、僕は、心の何處かで恥ぢてゐる。僕の蒐集した洋書の類は、僕の勞働に據るものではない。兩親や親族の僕に投資して呉れたお金で買つたものだ。親族の期待を一身に受けたにもかかはらず、僕は畢竟、空を空で撃つかの如き想世界に耽溺した。一族の富を僕一人で浪費した。其の結果が、今の僕だ。
 僕はもう讀書をしない。部屋の藏書は、今では數年の時間をかけて、埃のうちに眠つてゐる。僕の夢は破れた。否、僕には夢もなければ、何の計劃もなかつた。帝都での讀書生活の後に信州上田に歸つてきた僕は、學業とは直接關係のない生絲商人の道を歩み出した。
 だからと云つて、學業の道に、未練のない筈がない。
 里子さんに、「和巳さんは、もう洋書を讀まないでせう?」「不要なら私たちに下さらない?」と云はれた時、相手に惡意の無い事は十分に承知してゐた。其でも、心中に、眞つ黒い、嫌な感情が湧き上がる。
 其でも、僕は何も言ひ返さなかつた。里子さんが用ゐてくださるなら、差し上げよう。僕は其を無償の奉仕と認識した。僕は洋書を讓る約束をした。
 里子さんが幸せなら、其で好い。其が、僕の、心からの本心であつた。里子さんが、僕の人生の凡てであつた。
 翌日、直ぐに業者がやつて來て、僕の部屋から、藏書を箱詰めして持つていつた。手際の良さに、僕は呆氣に取られた。そして、つい先刻まで天井に屆く本棚に圍まれてゐた部屋の中の光景は、すつかり樣變はりして了つた。殺風景な、空つぽの部屋に變貌したのだ。
 呆氣ない。
 そして、僕の馴染んだ僕の部屋は、すつかり變はつた。後戻りの出來ない、變化であつた。里子さんの爲、僕は其の變化を受け入れた。
 今頃、里子さんたちの物語倶樂部は、洋書の山に圍まれて狂喜してゐる處であらう。其なら好い。里子さんたちが喜んでくれるなら、僕は其で好いのだ。僕の大成しなかつた學業よりも、女學生たちの親睦を深めるために役立つことが、あの本の使命であつたのだ。
 僕は、空つぽに成つた部屋の疉の上に仰向けに成つた。天井が、高く感ぜられた。長方形の、殆ど空つぽに成つた、殺風景な部屋の中に、僕は自己の感覺を研ぎ澄ませた。何處か外で、子供が遊んでゐる。何の變哲もない秋の一日だが、恐らく今日は暖かいのだらう。
 天井を見上げつつ、僕は、當面の金の工面を考へざるを得なかつた。東京行きの爲に、豫算以上の經費をかけて了つた。自轉車を贖入する資金は、里子さんのお母さんが僕に渡して呉れたものの、其では少し足りなかつた。勿論、僕の二等客車に乘つた所爲でもある。然し、不足分を補ふ爲に洋書を賣却する積もりが、其らは總て、里子さんたちの物語倶樂部に無償で讓渡して了つた。最早、手元に賣却して金に換へるやうなものは殘つてゐない。扨て、困つたぞ。帝大卒の高等遊民が、堅實な生絲商人に成つたと思へば、今や、──
 今や、毎月の支拂ひにも困窮する状況である。
 僕は、事情あつて、家族と別に暮らしてゐる。事情と云ふのは、僕の生活力に乏しい事を憂へた親の方針に因り、自活せよとのことであつた。其が故に、僕は生まれ育つた信州上田の街の中で、敢へて下宿してゐた。僕の實家は裕福な家系ではあるものの、僕自身は月々の生活に苦勞してゐる。是も亦、里子さんとの將來のために必要な、大事な修行に他ならない。
 當坐、僕は下宿代の工面に頭を惱ませる事に成つた。賣れるものは何でも賣りたい。然し、部屋の中は空つぽだ。
 はてさて、困つたぞ。僕は溜息をつくやうに、困つたと云ふ語を繰り返した。先づは、冷靜に成らなければ。斯樣な時に慌てて了へば、状況を改善する事は出來ぬ。其許りか、屡々、判斷を誤つて了う。先づは、落ち着かう。何れ、今日明日に死ぬと云ふ話ではない。
 僕は是までにも、幾度か困窮を經驗した。帝大卒の智識階級と云へど、職業を持たなければ、社會の中では灰燼の如き存在に過ぎぬ。また、僕は大逆事件の起こらない前に社會主義に傾倒した事がある。僕は資本家ではなく、勞働者の筆頭として自己を定義してゐた。働かざる者、食ふべからず。僕は、何よりも自己自身を律する戒律として、社會主義のイデオロギイを自己の内面に滲透せしめようと企てた。今は轉向したとは云へ、其の頃の價値判斷の基準は、今でも其程大きく動いてはゐない。僕は、どんな仕事でも引き受けた。本業は生絲商人でありつつ、蠶絲專門學校の非常勤講師をし乍ら、時には庶民に交じつて、壽司にたんぽぽを載せる仕事すら、僕は厭はない。其は、僕自身の勞働者精神に基づいてゐる。僕には資本家階級の自己認識はない。僕は、蠶絲業を管理してゐるのではない。僕自身も亦、製絲業に從事する勞働者の一人に他ならないと考へる。何、大丈夫だ。金がないのなら働けば好いのだし、賣るものが何もなければ、賣るものを作るだけのことだ。
 僕は、斯樣なる状況の下でも、自分が存外、落ち着いてゐると云ふことに安堵した。そして、何とか成るさ、と自分を鼓舞した。──さあ、金が無いのなら、金を作るだけのことだ。ずくやんでちや、なんにもできねーじ。僕は、自分に然う言ひ聞かせて、疉の上で起き上がつた。
 部屋の一角に、見慣れぬ人形の姿を認めたのは、其の時であつた。
「何だ、是は?」
 見慣れぬと云ふか、見た事がない。斯樣なものを買つた憶えはないし、部屋の中に置いた記憶もなかつた。大きなものではないが、部屋の中にあつては存在感がある。
 僕は、一寸近附き、人形を凝視した。佛像に似てゐるが、何處か異質である。女性の姿をしてゐるやうにも見える。
 僕は暫く考へた。さう云へば、信州から北越にかけては、中央政府の知らない特有の神佛を祀る風習があると聞いた事がある。權現信仰、巨石崇拜、馬頭觀音、……東北地方の養蠶地には、オシラ樣と云ふ神がゐるとも聞く。内村鑑三先生の地方傳道は、當初、信州と北越に據點を有したものの、とりわけ北越の地に於いて現地の土着信仰との間に軋轢を生じたと云ふ。大鹿村の教友會が顯著である。今、目の前にある異形の偶像を眺めるうちに、數年前に然樣な話を聞いた事を思ひ出した。是は、其のやうなものであらうか。誰かが、勝手に忍び込んで、何處かの神佛の像を置いたのであらうか? 
 いやいや、違ふ。是は、アシェラ像だ。
 僕は、暫時呆けてゐたのか、目の前の偶像が、自分の持ち込んだアシェラの神像である事に氣附かなかつた。と云ふのも、明るい場所で見た時と、今、薄暗い部屋の中で見た時とでは、アシェラ像の形態や顏の造りが、著しく異なつて見えたからである。晝間、教室で女學生に見せた時は、ただの imitation の安物であつた。其れが今、薄暗い中に、妙な妖氣を帶びてゐる。
 あらためて凝視してみるに、是は、まさに異形の神像と云ふべきものだ。慥かに佛像に能く似てゐる。然し、細かい部分の造形が、普段見慣れてゐる佛像と完く異なつてゐる。
「部屋に置いた覺えはないのだが」
 僕は、誰に告げる譯でもなく、唯、獨り言ちた。然うしたら、
「其處に有るなら有るんだらう」
 と、誰かが背後で返答した。
 其の聲は……!? 僕は咄嗟に、横濱で出會つた通行人を聯想した。横濱で出會ひ、更には夢現の中、繭倉庫の前でも會つた、例の通行人。彼奴が、僕の部屋に! 僕は振り返つた。
 絹次郎であつた。彼許りでない。信州上田の粗暴な連中が、僕の部屋に寛いでゐる。一先づ、氣心の知れた相手の顏に、僕は安堵した。
「何だお前ら、何時から居たのだ?」
 と訊ねると、絹次郎は云つた。
「常田君。君の背中には眼玉がついてゐないやうだね」
「何? 然樣な事、當たり前ぢやないか」
 僕は、半ば巫山戲て応へた。絹次郎は、何かの皮肉の積もりであらうか。相變はらずの厭な奴め。
 部屋には絹次郎の外、小諸も居た。信州上田を代表するむさ苦しい男連中が、何時の間にか、僕の部屋に勢揃ひしてゐる。
 さうか。僕は合點が入つた。此のアシェラ像は、絹次郎が持ち込んだのに違ひない。判つてみれば、奇異な點は少しもなかつた。僕は試しに、絹次郎に訊いてみた。
「なあ、絹次郎。之の像は賣れたかい?」
「さうだな。相手を口車に乘せる度胸があれば、賣れる」
 相變はらずの不遜な奴だ。商賣だと云ふのに、相手を口車に乘せるとは。然し、絹次郎の事であるから、實際、上手くやつてゐるのに違ひなからう。其で僕は、「どんな風な口上で賣るのか」と訊いてみた。すると、絹次郎は応へて云つた。
「附加價値が大事だ」
「附加價値か」
「さうだ。物が贋作であると云ふ事實は動かない。然し、譬へ贋作であつても、民衆の欲望や射倖心を搖さぶる事で、商品として賣れるやうに成る」
 何處かで聞いたやうな理屈だと思つたが、敢へて追求せぬことにした。絹次郎は冷徹な策士だ。屹度、斯かる附加價値論に基づいて、僞神の偶像を商品に換へるのに成功してゐるに違ひない。僕は内心、賢しげなこと許り考へ、畢竟、何も實行出來ぬ自己を卑下した。他者を羨望し、他者との競爭に驅り立てるものが、己の劣等感に他ならぬことを自覺しつつも。
 其にしても何故、絹次郎たちは、僕の部屋に酒宴を始めようとしてゐるのか。僕の部屋は禁酒である。變なものを持ち込まないでくれ。
「おい絹次郎。酒はよせ」
「何で」
「僕の信仰に反するから」
「お前は飮まなければ好い。自分の信仰を他者に強制するな」
 さう云つて、絹次郎はよくわからぬ酒をがぶがぶと飮み始めた。まつたく圖々しい奴だ。僕は、先刻までとは完く別のことで、やれやれと思つた。内村先生の mission の一つは禁酒主義である。亦、信州には相馬愛藏、井口喜源治兩先生による禁酒禁煙の會がある。然し、當地では、智識層ですら此の有樣なのである。況して、信州の庶民に禁酒を徹底するには、假令、ピューリタンが大舉して入植しても、あと百年はかかるのかもしれない。僕は、一寸氣が遠くなるやうな心持ちがした。
 ともかくだ。僕の部屋に勝手に上がり込み、飮み食ひするのは好いとして、飮酒は辭めてもらひたい。だから、
「絹次郎、──」と、僕は努めて冷靜を保ちつつ、彼を諌めようとした。だが、やつぱり弱氣に成つた。「分かつたよ。好きなやうにして呉れ給へ」
 今の僕は、絹次郎と議論をするだけの餘力を持たない。其に、完璧主義を徹底する自尊心も、今の僕には殘つてゐないのだ。
 處が、僕が急に退いたのを看て、絹次郎は恐縮し出した。
「おひおひ、和巳君。然樣な聞き分けの良い男では無かつた筈だぞ」
「何だ、君たちは。僕を怒らせて、面白がる積もりだつたな?」
「然り、其の通りだ。冗談の通じぬ君を揶揄うのは、大變に愉快な遊びだからな」
 何が愉快な遊びだ。こつちは大變に不愉快だ。だが、今の僕には、絹次郎と議論をするだけの心理的な餘力は無い。構ふものか。僕は疉の上を立ち上がり、襖を開けて、外の清々しい光を部屋の中に入れた。信州らしいはつきりしない天候だが、秋らしく、心地の好い空氣だ。
「此の天然が、僕のエクレシアだ」と、絹次郎にでもなく、誰にでもなく、僕は天地に宣明するやうな氣持ちに語つた。「さあ、酒盛りでも何でもやり給へ。僕の部屋を好きに使へ。然樣な事ぐらゐで、僕の信仰は一寸たりとも、びくともしない」
「そいつは好いや!」
 と、応じたのは小諸である。彼は跳ねるやうにして縁側の僕の隣まで來ると、着物を脱ぎ、股眼鏡に庭を眺め出した。
「美しき天然!! エクレシア萬歳!!」
 と、彼は號令すると、其の侭の體勢で、庭に向かつて小便を垂れた。
「ちよ、おま、やめろ!」
 僕は靜止をしようとした。然し、小諸は、其の儘出し續けた。丁度、授業を終へた女學生が數人、家の前を通りがかつたが、股眼鏡に小便を垂れてゐる小諸の姿を認めると、互ひに顔を見つめ、ぎやああと云ふ奇聲をあげて逃げていつた。
「やめろ! 僕の家で、變態行爲に及ぶな!」
 尚も止めようとしたが、駄目であつた。行爲はともかく、家で斯樣なことをされては、後で僕が惡く云はれる。だが、小諸は益々面白がつて、道を歩く女學生を呼び止め、「今、小便してまァす!」と宣言する始末だ。
 本當に厭に成る。僕は、男同士が連帶したときに不可避的に經驗する粗暴さ、野蠻さ、不潔さと云ふものを心の底から嫌惡してゐる。帝大の寮で、お酒を呑まされる前にストオムをさせられた事や、部屋の窓から寮雨を降らす學生の姿が聯想された。厭な記憶である。信州上田に歸つてからは、僕は、成る可く、然う云つた男同士の絆を避けて、心靜かに生活しようと思つてゐた。處が、或る時、絹次郎からの「會合に使ふ場所を貸して呉れ」と云ふ申し出を許諾して以降、僕の部屋には、なし崩しに人が集まる事が度々あつた。そして、今や、大學時代の洋書を里子さんの物語倶樂部に讓つて了つた僕の部屋は、殺風景な空つぽだ。男子の酒盛りに都合良いと思はれたら、益々、居着かれて了うかもしれない。
「おい、小諸!」と、僕は一喝した。「小便が濟んだなら、大人しく其處に坐れ」
 小諸は未だ下半身を露出した侭、一度僕の方をぢつと見た。其から、言はれた通りに坐らうとした。──やい、待て。其の儘坐るな。先づ服を着ろ。
 僕は、不潔な連中を部屋に入れるのは、今日限り終はりにしようと心に決めた。如何にも野蠻で、文明的でない。然し、僕の口を開かぬ前に、絹次郎が割り込んだ。
「和巳君、君は今囘の東京行きで、すつかり都會に被れて了つたらしい。だが、信州の産業を興すなら、信州の氣風を忘れて貰つては困る」
 僕は直ぐさま反応した。
「信州の氣風? 無論、僕は忘れてゐない」
「いや、君は忘れてゐる。信州の産業を興すと云ふのは、信州の民と同じ目線に立つことだ」
 絹次郎の高説が始まつた。然樣なことは分かつてゐる。僕は何時でも平民の爲を思つてゐる。絹次郎こそ「自分が信州上田の民を食はせてゐる」と宣つてゐたではないか。
「絹次郎。お前こそ、何時も“上から目線”の偉さうな、嫌な奴ではないか」
「さうか。さうかも知れぬな。然し、假令、俺が然うだからと云つて、其は、君自身の白状である事實を免罪する事にはならないぞ。──常田和巳君。君は白状だ。君は僞善者だ」
「何だと」
「和巳君は、畢竟、微温的な温情主義者に外ならない。考へても看給へ。平生、女權の擴張を君は説くが、其の實、君は支配階級の男性としての構造的特權を手離さうとはしてゐない。然り、自分こそが進歩的で、寛容であると云ふ、思ひ上がりの心が、君にあるのだ」
 僕は、今は議論をしたくない。だから、即坐に応答する事をしなかつた。だが、すると更に絹次郎は言葉を繼いだ。
「所詮、親の蓄積した資本に依つて、東京に遊ぶことを許された左翼崩れの、暇に任せた慈善家氣取り。和巳君。其が、君の實像ではないのかね?」
 僕は敢へて反論しなかつた。今は議論をしたくないし、其に、絹次郎の云つてゐる事の半分程度は當たつてゐると、僕自身も認めざるを得ないからであつた。抗ひ難い事ではあるものの、僕自身の内部には、階級的な負ひ目がある。其は、紛れもない事實であつた。
 さうだとも。僕は、所詮、勞働者と同じ目線に立てない。何をやつても、書生芝居の延長でしかない。身も蓋もない話ではあるが、僕は假令勞働に失敗しても、明日のパンを得るに困らない。然し、小作人たちは、工員たちは、然樣な悠長なことを云つてゐられない。
 絹次郎は、更に云つた。 
「和巳君は、會ふ度に全然別の内職をしてゐるし、其も直ぐ首に成る。君が生活上の安定を維持してゐるのは、畢竟、親の敷いたレエルの上にゐるからだ。其でゐて、血統の保證を持たぬ爲に、眞の特權階級である里子さんの家に執心する」
「然う見えるのか」
「俺の目には然う見える」
  だが、僕は其でも反論しなかつた。今は唯、議論をしたくないと云ふ思ひが、凡てに勝つてゐる。
「絹次郎。小諸。酒盛りの邪魔をして惡かつた。僕は庭に降りる」
 と、僕は云つて、其の言葉の通りに庭に出た。絹次郎は、「おい、和巳君。何處へ行く?」と問うた。僕は、「何でもない。信州の風にあたりに行く」と答へた。
 秋風が心地よい。僕は季節の中で、秋が一番好きかも知れない。冬に成れば、雪が降り、人々は家に篭りがちに成る。今の時期が、過ごしやすい。
 後ろの方から、絹次郎と小諸が何やら騒いでゐる聲が聞こえる。何を喋つてゐるかまでは判らないが、構はない。樂しくやつて呉れればよろしい。僕は、現世にあまり關心もなければ、人々のことも何處か他人事であつた。僕は僕のことに集中する。其が第一である。
 二人が押しかけてきても、僕の置かれた状況は一切變はつてゐない。良くもなければ、惡くもない。一先づ、當坐、僕は僕の生活費を工面せねばならない。だが、僕は先刻よりも落ち着いてゐた。──空を雲が移つていく。どうせ直ぐに死ぬわけぢやなし、大丈夫だ。
 其の時、僕は不意に、庭の一角にアシェラ像が安置されてゐるのに氣づいた。
 何だ、斯樣な處にも。
 僕は近寄つて、其を凝視した。アシェラ像は風雨に晒され、幾星霜を閲したかのやうに苔生してゐる。部屋の中に見てゐたものとは、外觀が亦大きく異なる。絹次郎め、扨ては惡戲で斯のやうなものを置いたのに違ひないな。と、僕は早合點した。
 いやいや、違ふ。是は家の道祖神だ。
 信州をはじめ、山間の街には、街道の至る場所に、旅人を導くための道祖神が祀られてゐる。場所に依つては、私有地の内にもある。僕の家の一角にも、最初は餘り氣に留めなかつたが、庭に道祖神が鎭坐してゐる。特に叮嚀に祀つてゐるわけではないが、時々、庭を歩いてゐる時に目に入ると、其の度毎にぎよつとする。
 信州上田の教友は、之を異教の偶像として、打ち壞すやうに僕に勸めた。だが、僕は其を實行しなかつた。假令、異教の偶像であつても、民衆の信仰の對象を輕んずるべきではない。僕は然う考へたからである。信州上田の人々にとつて、道祖神への信仰は、生活に根ざしたものだ。其を根こそぎにする事は、隣人愛に適ふのであらうか。
 僕は庭の道祖神を矯めつ眇めつし乍ら、獨特の敬虔な心持ちに成つていつた。無論、舊約の律法を思ひ起こさなかつた訳ではない。だが、信州上田の民衆と共に生きる爲には、土着信仰を受け入れなければならない。其に、里子さんの家との關係もある。陣内家、すなはち眞田一族と云へば、信州上田の人々にとつて特別な存在である。僕の里子さんと婚姻を結ぶの爲には、唯二人きりの關係に終始せず、郷土の精神的紐帶の内で然るべき地位を占めねばならない。自己の信念に依つて、民衆の信仰を亂るは許されない。
 何時の間にか、僕自身の内心には、里子さんとの結婚と云ふ目的の外、里子さんの御家族との關係の構築、信州上田の民衆の内に自己自身が樞要な地位を占めると云つた、幾つもの目的が混合していつた。そして、其のことに無自覺な儘、僕は行動しようとしてゐた。僕は知らぬうちに、氣が大きくなつていつた。特權階級の令孃と結婚をする。其のことが、恰も自分自身の價値をも高めるかのやうに、僕は、無自覺に、勘違ひしてゐたのであつた。
 部屋の方から、聲が聞こえる。絹次郎と小諸が、戲れに何か云つてゐるらしい。僕は聞くとはなしに聞き耳を立てた。二人は、「ちんこかつちんこつちん、ちんこかつちんこつちん」と唱和してゐるらしい。のみならず、またも身體を露出し乍ら、呑氣に笑つてゐる。
 下品な奴らだ、と僕は侮蔑した。斯樣な奴らと同類に成つてたまるか。僕は、親しい友人二人を心密かに蔑み、自分の方が上であると云ふ傲慢な心持ちを抱いてゐたのであつた。然も、其のことを當然のやうに考へ、下品な行爲に出る者たちが惡いのだと云ふ一方的な決めつけをさへしてゐた。友人や民衆を無自覺に見下す、偏狹さ。其の無自覺な偏狹さ故に、僕は自己の世界を狹めてゐると云ふことが、斯の時は、未だ、判らなかつた。
「然う云へば、ハンス王子!」
 と、部屋の中から聲が屆いた。絹次郎であらふ。彼奴が僕のことを「ハンス王子」と呼ぶ時は、何を云はれるか決まつてゐる。どうせ、里子さんと僕の結婚を冷やかす積もりに違ひない。絹次郎は、着物をはだけた侭、情けない姿で僕の方を見てゐる。
「おうい、王子」
 と呼びかける彼の表情は見えない。僕は無愛想な聲で応へた。
「絹次郎、何だ」
「君に傳へておくべきことがある」
「何だと云へば」
「大事なことだ。和巳君、能く覺えておき給へ。實は、……女子は一ト月に一度、惡靈に憑かれる」
「其は、如何云ふことだ?」
 僕は亦、絹次郎の僕を揶揄つてゐるに違ひないと考へた。惡靈とは、僕の基督信徒たる事に皮肉を云つてゐるのだ。
「絹次郎、言葉を愼め」
「和巳君、君の女權主義は結構だが、君は女と云ふ生き物のことを全然識らない。女性を理想化する君自身の信念は、やがて、女性の本性を目の當たりに見た時、完く瓦解する」
 絹次郎の表情は見えぬが、何とも悠然と語つて呉れたものだ。蓋し、絹次郎は男性同士の homosocial な共同體にどつぷりと滲かつた結果、彼の認知に有害なる加害性を内部化して了つてゐるのに違ひない。僕は、早合點から他者を斷罪する惡癖を此處に於いても繰り返した。絹次郎の忠言を直ちに斥け、自己の正義に陶醉した。
「絹次郎、餘計な深慮は御無用だ! 君は君で、思ふ處を述べるのは構はない。然し、僕には僕の論理があるのだ」
「成程、論理か。和巳君、君の言動は、一から十まで、全部私情ではないのか?」
 と、絹次郎は變な處を突く。けれども、僕は然程氣にしなかつた。有害な男性性を内面化し、他者を加害して憚らないやうな連中とは、常に、精神的な距離を取る。……連中! 僕は、舊知の絹次郎らを暗默の裡に見下し、自分の方が倫理的に正しいのだと云ふ憶斷の下、僕自身の他者を蔑んでゐる儼然たる事實に無自覺であつた。
「絹次郎! 今日のうちは、僕の部屋を自由にして呉れ。僕は今、信州の風、そして、主の創造し給うた太陽と、山川草木のエネルギイを一身に浴びてゐる。誰にも邪魔をされたくないんだ」
「ハンス王子、議論を避けるとは卑怯だぞお!」
 と、絹次郎は叫んだ。だが、僕は氣にも留めずに、信州の空氣を身體一杯に吸ひ込んだ。僕は、僕自身の生活を如何にかする。そして、里子さんと幸せな結婚をする。其以外のことは、僕の人生の借景に過ぎないのだ。
 誰かに何を云はれようと、僕には其しかないのだから。
 今や、絹次郎と小諸の存在は、僕自身の認識の上から急速に後退していつた。僕の獨我論的傾向は、僕自身の獨我論に陷つてゐる事其のものを見えなくした。好いのだ。里子さんこそが、僕の人生の凡てなのだ。他の誰に何を云はれようと、誰も僕らを止められない。
 信州の風土の中で、僕は何時の間にか一人に成つた。外界の喧騒を拒絶した。眼前に不穩な風景が廣がつてゐる。幻覺だ。
 僕は一人の女性の爲に、一歩、亦一歩と、獨我、獨善の道へと踏み出していつた。友の忠言を退け、自分自身の信念に依怙地に成り乍ら。好いのだ。是で好いのだ。僕の戀に反對をする者は、僕の認識の外部に追ひ遣つて了へ。里子さんと僕は眞實に愛し合つてゐる。心が通じ合つてゐる。誰も、二人の戀を邪魔する事は絶對に出來ないのだから。
 
 
 第一〇部 「私と仕事どつちが御大切なの!」
 
 信州の長い冬が過ぎた。春の到來。其は、まことに喜ばしい。僕は里子さんと一緒に、久しぶりの觀劇に出かけた。
 出掛けてゐる間、里子さんは、終始、上機嫌であつた。僕はと云へば、蠶絲專門學校の非常勤職を何とか續け、實生活は貧しいのに違ひなかつた。然し、如何に貧しくとも、里子さんと過ごす時間は、眞に砂漠のオアシスであつた。僕は、實際苦しい日々を送りつつも、里子さんのいる時間を精神の據り所として、一日、亦一日と過ごした。僕にとつて、里子さんと出會つた人生は、一點の瑕疵もない寶石である。
 觀劇の後も二人で商店街を歩いて廻つたから、すつかり遲くなつて了つた。里子さんは、未だ芝居の餘韻に昂奮してゐる樣子である。今度は物語倶樂部の女學生を連れて觀に行きたい、と快濶に語つた。
「私アルテイシアにすつかり感情移入して了つたわ!」
 アルテイシアとは、里子さんと先刻一緒に觀た芝居の登場人物である。其は、星々を巡る大冒險活劇であつた。數奇なる運命を辿つたキャスバルとアルテイシアの兄妹は、何時しか其々の運命に飜弄せられ、家族を失ひ、別離した後、敵同士に成つていくのであつた。
 里子さんは、「若しも私たちが兄妹で、離れ離れに成る運命だつたら」と云つた。兄妹! 里子さんがアルテイシアで、僕がキャスバルなら、……僕は腦裏に想像を巡らせた。其は、實に悲劇的な、然しロマンティックな想像であつた。
 尤も、僕自身の頭の中は、觀劇のことより、里子さんで一杯であつた。存外、里子さんも然うかも識れないが、信州の長い冬が畢わり、初が訪れ、二人で出かける事の出來る幸せを僕は滿喫してゐた。里子さんと竝んで歩けるだけで、生まれて來て良かつたと思ふ。
「和巳さんと、毎週觀劇に行けたら好いのに」
 と、里子さんが獨り言のやうに云つた。僕は、「行けたら好いものだね」と応へた。
 だが、僕には現實の危機が迫つてゐた。僕は此の時、既に、蠶絲專門學校の非常勤講師の給與を半年分、前借りしてゐたのである。
 秋以來、里子さんからは、洋書をねだられた他にも、冬物の帽子が欲しい、可愛らしいコオトが欲しい、と云つた、大きめの支出をたびたび迫られた。そして、勿論、僕は其らの要求を其の儘受け入れたのであつた。里子さんが欲しいと云ふなら、當然のことである。亦今日は、同じ演目を二度觀劇した。何でも、一度目は話の筋が解らなかつたからと、里子さんが「もう一度見たい」とねだつたのだ。里子さんと觀劇に行くと二度見る事に成るのは、最早通例と成つてゐた。當然、支出は嵩むし、其で今夜は歸りが遲くなつた。
 僕にとつて、里子さんの要望を聞き入れないと云ふ選擇肢は、固より、初めから用意されてゐなかつた。里子さんが望むなら、假令、地球の公轉軌道を變へるやうな無理難題であつても、實行しなければならない。其が、僕の信念であつた。とは云へ、地球の公轉軌道を變へるなどと云ふのは不可能なことである。其は心持ちの話であつて、物理法則の話ではない。そして、實生活の常識の範圍で、里子さんの夢を叶へる事しか出來ない。毎週觀劇に行く。其は、今の僕の財政状況では困難な要望であつた。
 里子さんは、再度僕の方を見て、然し視線は合はせぬ侭、訊いた。
「來週は觀劇に行けるかしら?」
「さうだな」と、僕は少し思案し乍ら、正直に告げた。「來週は讀書會の豫定が入つてゐるよ」
 其は、信州上田に自由教育の據點を作るための讀書會であつた。信州は無教會傳道の據點であり、自由教育の據點でもあつた。僕は其のやうな風土に於いて、名譽ある地位を占めたいと思ふ。だから、自由學校創設の準備段階として、讀書會に參加するのだ。
 里子さんは、直ぐに事情を察したのか、「さうですか」と応へた。
 暫し、沈默が降りた。
 里子さんの聞き分けの良さに、僕は安堵した。一四才の女の子は、もう大人其のものだ。僕は内心、里子さんにすまないと思ひ乍らも、自己の生活を省みないわけにいかない事情を否定するわけにはいかなかつた。
「里子さん、本統にすまない。毎週觀劇に行くなどと云ふのは、理想ではあるが、大人の社會では困難なのだ。然し、時間を作つて必ず亦行かう」
 と、口に出して云はうと思つたが、何かが言葉を押しとどめた。然樣なことは、里子さんも分かつてゐるに違ひない。
 暫くの間、僕たちは默つて通りを歩いた。大丈夫、里子さんは分かつて呉れてゐる。一四才の女の子は、もう大人其のものだから。僕は、無言の安心感の中、是からも里子さんを信頼して歩んでいくことを心に誓つた。大丈夫、里子さんと一緒なら、凡ては大丈夫だ。
 
 
 里子さんの日記
 
「そんなに讀書會が大切なの! きいいいいいいいいいいとか言ひたくなるんだよね」
 
 
 數日後の午前中、僕が氣だるい夢から醒めようとしてゐる時、小諸が家にやつて來た。 
「和巳の旦那、やくやく來たのに」
「何だ、小諸か。惡いな、僕は一日に十時間は寢ないと、頭が冴えないんだよ」
 無論、是は誇張である。一日に十時間寢るなどと云ふことは、一般の社會に生活してゐる者にとつて、實行不能な願望である。唯、今の僕は蠶絲專門學校の非常勤講師の外、何の内職もしてゐないものだから、暇と云へば暇である。然し、其は誇る可き事態ではない。
「其より、旦那。女學生たちがざわついてゐますぜ」
 と、小諸が告げた。何だ、今度は一體何なのだ。信州上田を定期的に襲ふ、人騒がせな出來事。僕は何時も、其の渦中の人物と目され、嘲笑の的とされて來た。今度は何が起こつたのか。
 小諸は短く事情を告げた。里子さんの日記の一文が、女學生の間に物議を釀してゐると。そして、復しても僕は、女性差別を助長する女性差別主義者として糺彈されつつあると。
『そんなに讀書會が大切なの! きいいいいいいいいいいとか言ひたくなるんだよね』
 里子さんの日記の文面を見た途端、僕は、心臟が凍りついた。──是は、大變なことだ。何氣なく放つた僕の言葉が、里子さんの心を傷つけた。然樣なことは、あつてはならない筈だのに。いま、里子さんは怒つてゐる。僕の所爲で、怒つてゐる。
 更に、事態は僕の思つた以上に進展してゐた。里子さんは、日頃、物語倶樂部のメンバアと日記を交換してゐる。從つて、里子さんが日記に書き附けた僕に對する不滿文は、既に、女學生の集團の中で囘覽濟みであつた。僕は惡者と決めつけられてゐた。一方的に。
「小諸、僕は一體如何すれば好いのだ!」
 僕は取り亂して、目の前の莫迦に訊いた。然し、莫迦に見識のある筈もない。小諸は、僕の顏と、日記の文面(其は、女學生が擴散の爲に書き冩したものである)とを見比べ乍ら、「きいいいいいいいいいい」と云つた。駄目だ、此奴にまともな智慧などない。小諸は所詮、女學生が好きな餘りに女子寮の管理人を引き受けてゐる、唯の莫迦に外ならない。僕は冷靜に成り、自分自身で事態に對處するしかない事を理解した。
 先づは、里子さんに會ひ、里子さんの話を聞くことだ。
「小諸、濟まない。一寸出てくる」
 と言ひ殘すが早いか、僕は外着に着替へて走り出した。里子さんのことに成ると、僕は何時も慌てて走り囘る事に成るやうな氣がする。兔にも角にも、今は、直ちに蠶絲專門學校へ向かはねばならない。里子さんに話を聞く爲に。
「和巳の旦那! どうしたんスか? ……ひよつとして、大便我慢出來なくなつたんスか〜?」
 と、遙か後方で小諸が叫ぶ。今は然樣な言葉に氣を取られてゐる暇はない。蠶絲專門學校へ僕は急ぐのだ。
 里子さんは、今頃、學校で授業を受けてゐるのに相違ない。走れば、晝休みには學校に着くだらう。
 通りを急ぎ驅け拔け乍ら、僕は思つた。僕は、里子さんと結婚をする。だから、里子さんと結婚をしなければならない。だから、僕は里子さんと結婚をする爲に、里子さんとの結婚に相応しい人間に成らなくてはならない。思考は滅茶苦茶である。僕は走つてゐるのだ。唯、今の僕には、里子さんと結婚をする事の外、全部如何でも好い。僕は蠶絲專門學校へ急いだ。里子さんに會ひ、直接話をしなければならない。
 學校の直ぐ傍まで來ると、道端に女學生たちが談笑してゐる。もう、授業は終はつたのだらうか。僕は見知つた顏を見つけて、聲をかけた。
「かやちやん、おやきちやん、ご機嫌よう!」
 二人と、もう一人の女學生が、三人で何か談笑してゐた。処が、僕の声を聞いた途端、まるで天敵に出会した草食動物のように、僕の方を見た。僕の方を凝視した。警戒の色を感じる。のみならず、女学生たちは口々に、声を合わせて、斯様なことを叫んだ。
 
 女学生A「そんなにィィィーーーーーー!!!」
 女学生B「讀書會がァァァーーーーーー!!!」
 女学生C「大切なの!!!」
 全員「きいいいいいいいいいいとかァァァーーーーーー!!! 言ひたくなるんだよねェェェ〜〜〜〜〜〜!!!」
 
 僕は瞬間的に化石せられた。全速で驅けてきた身體の律動が、一度に停止した。心臟が止まるかのやうであつた。 
 里子さんの僕に對する抗議の文章は、交換日記を媒介として、既に女學生たちの周知する處と成つてゐるのだ。僕は、此の瞬間に凡てを了解した。物語倶樂部の會員だけではない。蠶絲專門學校に在籍する女學生のマジョリティが、僕の失態を識る處と成つてゐる。僕は、女學生A、即ち、かやちやんの冷徹な視線に射拔かれた。輕蔑されてゐる。其の事が、はつきりと判つた。
 僕は逃げた。女學生たちの威壓の視線に耐へられなかつた。
 處が、次の區間に行くと、亦、別の女學生たちのグルウプが、路上に立ち話をしてゐた。今度は、僕の知らない顏許りである。
 かう見えても、僕は蠶絲專門學校の非常勤講師である。先生なのだ。從つて、學生の前では模範を示さねばならぬ。
「やあ、諸君。ご機嫌よう」
 僕は、一寸衣服を正して、女學生たちに呼びかけた。今日は非番だが、先生は先生然としてゐなくてはならぬ。僕の聲は、女學生たちの雜談を止めた。すると女學生たちは口々に叫んだ。
 
 女学生D「そんなにィィィーーーーーー!!!」
 女学生E「讀書會がァァァーーーーーー!!!」
 女学生F「大切なの!!!」
 全員「きいいいいいいいいいいとかァァァーーーーーー!!! 言ひたくなるんだよねェェェ〜〜〜〜〜〜!!!」
 
 僕は、またもや化石せられた。まさに恐怖の體驗である。里子さんの日記は、既に、蠶絲專門學校の女學生たちの殆どに囘覽せられ、彼女たちの殆どが、僕の失態を知悉する處と成つてゐる。
 僕は逃げた。女學生たちの威壓の視線に耐へられなかつた。
 走り乍ら、僕は思つた。──女學生たちは、僕自身はもとより、里子さんのことをも内心莫迦にしてはいまいか? 然し、今の僕は、理屈を竝べる冷靜さを缺いてゐる。則ち、女學生たちが我儘お孃さま里子さんに對して抱へてゐる、複雜な感情を分析し得なかつた。僕は一旦構内を出て、人の目を避けようとした。一時退却だ。
 すると、門の前で大勢の女學生が、………
 
 女學生一同「そんなにィィィーーーーーー!!!」 
 女學生一同「讀書會がァァァーーーーーー!!!」
 和巳「や、やめて呉れェェェーーーーーー!!!」
 
 と、喜劇のやうなやりとりが交はされるが早いか、僕の身體はひつくり返り、頭が地面に突き刺さつた。まるで漫畫だ。
 何故だ。僕は眞面目に生きてゐる積もりなのに、何もない場所で足を引つ掛けて轉んだり、人生の大事な局面で些細な理由から失敗して了ふ。
 もう斯樣な人生は、厭だ。
 僕は、何とか自力で頭を拔いた。僕の頭が突き刺さつてゐた地面には、大きな穴が空いてゐる。正に、まるで漫畫である。女學生たちが遠卷きに僕を見てゐる。嘲笑してゐるのに違ひなかつた。もう斯樣な人生は、厭だ。
 女學生たちがヒソヒソ話をしてゐる。……ワイセツ、猥褻。……僕は違和感を覺え出した。着物がスースーする。
 何と云ふことであらうか!
 ひつくり返つた途端に、着物が脱げ、僕のおしりが外氣に露出してゐた。女學生の面前で、僕はおしりを露出したのだ!
「違ふんだ! 是は事故だ!」
 僕は叫んだ。公衆の面前で、故意におしりを露出する者があるか。いや、あるかもしれぬが、僕は違ふ。僕は、今や、信州上田の製絲業を支へると云ふ矜持を抱いてゐるのだから、然樣な破廉恥を働く筈がない。他の莫迦とは違ふ。斯樣な状況にあつても、僕は無自覺に他者を見下す自己中心性に囚われてゐた。そして、此の無自覺な自己中心性が、僕をどんどん誤つた方向に突き動かしていつた。周圍の冷たい目線を見たくない。いつそのこと、世界の終はりまで地面に頭を突つ込んでゐたい。
 僕は、自分の頭を地面の穴に插れた。のみならず、奧までぐりぐり掘つてみた。外部世界では、女學生たちが嘲笑してゐるかも知れない。だが、土の中までは聞こえてこない。僕は地面に頭を隱し、暫くの間、無の境地に成つてゐた。何だか虚しくなつた。いつそのこと、穴の中に身體を隱して了つたら如何だらうか。僕は甲蟲の幼蟲にでもなつたやうな積もりで、穴の中に這入つてみた。不思議なことに、穴は自然に廣がるらしい。暫くもしないうちに、大人の身體がすつぽり收まるぐらゐの空間が容易に出來上がつた。
「此奴は快適だ!!」
 僕は穴の中で叫んだ。天地逆さまに成つた儘、地中にのつそり這入つて看れば、其處は、誰の聲も屆かない、他者の言葉に傷つけられない快適な居場所であつた。地上から僅か隔てたところに、斯樣な理想郷があつたとは。──僕は思念した。人類は全員、穴に篭つて生きれば好いのだ。
 處が、快適な時間は、さう長くは續かなかつた。暫くすると、僕の地下の巣穴は、鐵の鋤のやうなもので侵襲せられた。
「誰だ!」
 僕は叫んで、巣穴から頭を出した。鋤を持つてゐるのは、三吉米熊教授であつた。
「三吉先生……?!」
「常田君、今日は非番なのですか?」 
 僕は心臟が凍るかと思つた。土の中に自閉してゐる僕の姿を三吉教授に見られて了つた。職務を全うせず、甲蟲の幼蟲のやうに安全圈に囘避してゐる姿を。僕は、顏の筋肉が引き攣るのを感じた。若手研究者の身分は不安定である。則ち、非常勤講師としての契約が延長されるかどうかは、眼前の三吉教授の意嚮に據る處が大きいのに違ひなかつた。僕は察した。今、僕の契約延長は消えたのだ。僕は目の前が眞つ暗に成つた。
 ──夢か? 否、夢ではない。
「和巳さん」と、別の聲がした。目の前にゐるのは、三吉教授ではなかつた。マーラーカオが立つてゐた。
「和巳さん、私を忘れないでください……」
 中國の美青年は靜かに告げた。是は夢ではない。然し、現實でもない何かだ。
「マーラーカオ、君の正體は何なの乎?」
 僕は、夢現の半ば、マーに訊ねた。横濱の怪しい會合のことは、今でも能く憶えてゐる。マーは幻智學會と呼ばれる組織の中に樞要な地位を占めてゐる。そして、僕にアシェラ像……即ち、異形の神像を賣るやうに勸めた。
「マーラーカオ、答へて呉れ。君たちは本氣なのか! アシェラ像のことも、日本と古代イスラエルの失はれた起源のことも!」
 然し、マーは答へなかつた。相も變はらず、美少年の中の美青年にしか出來ない、例の、あの涼しげな微笑を浮かべてゐる許りである。僕は、即坐に、彼らの陰謀論を否定する言葉を吐かうとした。だが、此の後に及び、僕は日和見主義に成つた。ひよつとしたら、彼らが正しいのかもしれない。アッシリアに捕囚された北イスラエルの民は、ペルシャによつて恩赦された。だが、彼らの一部は……?
 マーは相變はらず沈默してゐる。沈默した侭、靜かに微笑んでゐる。其の爽やかな表情が、光の中に呑まれていつた。
 ……幻覺だ!
 僕は直感した。今、幻覺を僕は見てゐる。
 やがて場面が轉換し、再び蠶絲專門學校の前で、僕は女學生たちに圍まれてゐた。
「やめろ! やめて呉れえええ!」
 僕は情けない鳴き聲を發した。女學生たちは、露骨に僕をゴミ扱ひしてゐる。僕は、自己責任論者として、女性差別主義者として、そして今日は里子さんが日記に書いた個人的出來事の爲に、信州上田の笑ひものとされつつある。
 女學生たちの顏が、何時の間にか、能面のやうに均一に成つてゐた。誰が誰だか分からない。無表情な有象無象の群衆が、僕の身體を取り圍み、玩具のやうに弄び始めた。僕は手足を縛られてゐた。
 攻撃してよい惡を見出した群衆は、良心のブレーキを持たない。僕の身體は、有象無象の人々の贖罪のささげ物として、絶望の神に供せられるのだ。
「ハンス王子、其で終はる積もりか?」
 と、群衆の中から聲がする。絹次郎の聲だらうか。然し、人が多すぎて、何處に居るのかわからない。僕の身體は人々の手に弄ばれた。僕には抵抗する力もなかつた。ただ、群衆の手に揉まれ乍ら、早く終はらないかと思ふだけであつた。
 落ち着け、是は幻覺だ。
 僕は今、何かの Vision を見てゐる。
 其は群衆ではなかつた。どす黒い蚯蚓のやうな、ドロドロの何かだ。
「和巳君、其で終はる積もりか?」
 何處からか、聲が聞こえる。聲の主は誰だか判然しない。然し、僕は意外に、落ち着き始めてゐた。全部、僕の幻覺だ。夢ではないが、現實でもない。得體の知れない不吉なドロドロの中にあつて、僕は身體の平衡を保つた。
 ドロドロは形もなく蠢いてゐた。だが、凝視してゐるうちに、段々と秩序を備へ出した。人の顏である。
「和巳君、」 
 と、尚も聲がした。「和巳君、此處から出して呉れ」
「お前は誰だ」
 僕は問うた。ドロドロの中から浮かび上がつた顏は、暫時沈默した。ドロドロは生きてゐる。生きてゐるもののやうに見える。僕は再度問うた。「お前は誰だ」と。答へはなかつた。だが、ドロドロはゆつくりと形を變へ、何時しか間拔けな人の顏をはつきりと示した。是の顏は誰だ? ──分かつた。僕の顏だ。
「莫迦野郎、」と、ドロドロは突然怒鳴つた。「間拔けな顏とは何だ。お前の顏だぞ」
 意味が不明な上、間拔けな顏と云はれ、二重に不愉快だ。一體、是のドロドロは何だ。
「おい、ドロドロ」
「ドロドロとは何だ」
「ぢやあ、名を名乘れ」
「名前は未だ無い」
 巫山戲てゐるのか。人でもないのに、人でなしだ。
「では、今、命名する。……混沌と云ふのは如何だ?」
「厭だ」
「ぢやあ、何なら好いのだ?」
「何でも厭だ」
「……判つた。では名無しの儘で好い。是は全體何なのだ? 夢でも現實でもないやうだが……」
 名無しのドロドロは、再度、默つて了つた。僕が何か、氣に觸る事を云つただらうか。僕は返答を待つた。
 沈默が支配する。待つてゐるうちに、百年もの月日が經過するやうに感じた。
「おい、名無し!」
 と、僕は叫びさうに成つた。然し、只管我慢した。どうせ、是は幻に他ならない。無いものに感情を搖さぶられて心理的に動搖するのは、無意味である。軈て、名無しはぼつぼつと喋り出した。
「若しも、彼の時、──」
「彼の時、とは何だ?」
 僕は直ちに問ひただした。名無しのドロドロは三度默つたが、今度は直ぐに話し出した。
「若しも、彼の時、里子さんの云ふことを聞き入れてゐたら?」
 僕は理解した。此の名無しのドロドロは、僕自身の内面に探りを入れてゐる。そして、僕を動搖させるべく訊問してゐるのに違ひない。と、思つてゐる矢先に、ドロドロの形態が變容し、女性らしい顏のかたちを示し出した。長い髮に、赤いリボン、里子さんの顏である。
「和巳さん、私と仕事どつちが御大切なの!」
 と、里子さんの顏は僕に告げた。落ち着かう、是は、本物の里子さんではない。僕自身の心象が、里子さんの幻影を映し出してゐるのに違ひなかつた。さうだ、現に、眼前の里子さんは、全長が百米を超えてゐる。形態は巧みに摸倣出來ても、大きさは著しく異なつてゐる。里子さんではない。
「答へて。どつちが御大切なの!」
 と、里子さんらしき形象は、尚も問ひ詰める。正體を知つてゐれば怖くも何ともない。
 だが、僕は矢張り里子さんに弱かつた。假令、僞物だと理解してゐても、里子さんの顏を眼前にして、無碍に接する事は出來ない。
「里子さん、」
 僕は呟くやうに云つた。其の瞬間、僕は自分自身の聲に慄いた。目の前にゐるのは、里子さんではない、里子さんの顏貌をした何かである。其の里子さんではない何かに對して、「里子さん」と呼びかける。僕の聲は虚だ。何だか得體の知れない、化け物にでもなつて了つたやうな氣がした。
「里子さん、」
 と、僕は再度云つた。然し、次の言葉が見つからなかつた。僕は思念した。私と仕事どつちが大切か、と云ふ問ひは、元よりをかしい。勿論、里子さんのことは尤も大切だ。けれども、仕事をおろそかにしてゐては、里子さんとの生活が破綻する。
 落ち着かう。僕は今、幻を見てゐる。目の前にゐるのは、本物の里子さんではない。先刻まで百米を超えてゐた里子さんの虚像は、今ではすつかり小さくなつて、薄羽蜉蝣のやうに成つた。其れでも、里子さんは僕を凝視てゐる。僕の返答を待つてゐるのだ。
 僕は困つて了つた。斯樣な時、如何な言葉を投げたら好いか、判らなかつた。すると、暫くもしないうちに、薄羽蜉蝣のやうなものの方から、「和巳君」と聲を掛けてきた。男聲である。絹次郎か、誰か判らない。然し、知つた人間の聲のやうな氣がする。
 聲は告げた。
「和巳君、氣を附ける事だ。貴樣は女性を前にすると格段に判斷力が鈍る」
 うるさい! 止めろ! 僕は半狂亂に成りさうだつた。此言葉は、再三、僕の腦裏を驅け巡つた。事實である。事實だからこそ、僕の自尊心を深く抉る。先刻までの平常心は消え去り、僕は無邊世界の中空に自己の精神のバランスを崩し始めた。僕自身の女性を前にすると格段に判斷力が鈍る、然樣なことは其は僕自身の深く自覺してゐる處なのであつた。だから何だと云ふのだ! 僕には里子さんが唯一の一者だ。 
 唯一の一者!
 名無しの薄羽蜉蝣のやうなものは、僕の内面の叫びを讀み取つた。復唱した。唯一の一者。さうだ、里子さんこそ、僕の唯一の女性であり、僕の心のオアシスである。其がどうした。僕は Platonic Love の信奉者だ。里子さんへの愛を恥としない。 
 すると名無しの存在は、再び形態を變化し始めた。今度は何だ? 人の姿ではなかつた。燭臺だ! モーセ時代の會見の天幕なる幕屋で用ゐられてゐたのと同じ、七枝の燭臺である。 「常田和巳君、」  と、燭臺は語る。神聖な空氣が、燭臺と僕の間に充滿した。
「問はう、常田和巳君。君にとつて、最も大切なものは何か? 其は、イエス・キリストか。其れとも、里子さんなのか」
「いきなり來たな」
「さうだ。常田和巳君、君たち二人の戀の物語は、此の儘行けば、共依存の泥沼に嵌るだけだ。主は、生きて居られる。今こそ、神の攝理による歴史への介入によつて、君たち二人を訓導する時なのだ!」
 七枝の燭臺は、威嚴を持つて語つた。無生物の癖に、偉さうな奴だ。……いや、燭臺は神の祭具であるから、無論、偉さうなのではなくて偉いのである。僕は中空を漂ひ乍ら、一先づは七枝の燭臺に拜跪したい心持ちに驅られた。
 だが、其處は恰も水中のやうで、僕は體勢を崩しさうに成つた。
「問はう」
 と、七枝の燭臺は、僕の體勢を崩しかけてゐる事には一切無頓着に、再び聲を發した。「常田和巳君、君にとつて、最も大切なものは、イエス・キリストか。其れとも、里子さんなのか」
「イエス・キリストのみ!」
 今度は、僕は即答した。勿論、心の中に邪念の一つもないから、即答できたのだ、と云ふわけではなかつた。寧ろ、「イエス・キリストのみ」と即答した時、僕の腦裏は里子さんのことで完く占有せられてゐた。即答する人間ほど、其の實、心に迷ひがある。僕は、邪念の塊であつた。
 七枝の燭臺は、暫時、沈默した。其は、氣まづい時間であつた。軈て、燭臺は聲を發した。
「常田和巳君。君は、僞證してはならないと云ふ戒めをご存知か?」
「……其が何だ? 基本的な原則ぢやないか」
 僕は苛々し乍ら、応へた。すると、燭臺は再び、
「和巳君。念を押して問う。君にとつて、最も大切なものは、イエス・キリストか。其れとも、里子さんなのか」 「だから、イエス・キリストだと云えば」  僕は再び答えた。だが、先刻より、即答する自信を喪失した。七枝の燭台は、僕の邪念を見透かしている。然り、僕の心中には、里子さんの姿が大冩しに冩り出した。すると、七枝の燭臺は、「フフフ……」と不氣味に笑ひ始めた。
「何だ!! 何が可笑しいんだ?!」
 と、僕が問ふと、燭臺は微動だにせず、
「常田和巳君。君は正直者だ。嘘をつけぬ性分と見える」
 と云つた。總てを見透かされてゐる。斯の七枝の燭臺は、僕自身の心宮の内奧をまるで透視するかのやうに、總て見透かしてゐるのだ。
「常田、和巳君。」
 と、燭臺は三度問うた。何だ!! 今度は何だ?! 然し、七枝の燭臺の言葉は、變はらなかつた。「君にとつて、最も大切なものは、イエス・キリストか、里子さんなのか?」
「だから、何度も云つてるぢやないですか!!」
 僕は、最早苛立ちを隱さなかつた。七枝の燭臺は、僕の心理を讀んでゐる。詰り、別段問ふ必要もなく、僕の思考を知悉してゐる筈だ。
 其の通り。僕の本心としては、イエス・キリストよりも里子さんの方が、餘程、ずつと、大事なのであつた。僕は嘘をついてゐた。敬虔を裝ひ、信仰者としての正解を述べる。然し、本心は別であつた。
 僕は、無教會信徒である以前に、里子さんの信者であつた。
「常田和巳君、然樣なに里子さんが好きに成つたのか」
「然うだよ! 好きだよ、好きで何が惡いかよ」
 僕は開き直つた。すると、七枝の燭臺は、ふふつと笑つたらしかつた。
「和巳君。君は正直な人だ。だが、君の素朴な想ひが、いづれ、里子さんを殺すだらう」
 そして、七枝の燭臺は暫時沈默した。僕の想ひが、里子さんを殺す? 其は、何處かで聞いたやうな言葉であつた。然し、何時、何處で聞いたのかは、思ひ出せない。
 然樣なことがあつてたまるか。
 としか、今は云ふことがない。
 然うだ、あつてたまるか!
「里子さんは死ぬものか!」と、僕は叫んだ。「里子さんは、僕の唯一の女性であり、僕の心のオアシスだ! 若しも里子さんが危險な目に遭つたら、僕自身が身代はりに成つてでも、絶對に救つてみせる!」
 七枝の燭臺は、尚も沈默してゐる。僕は更に續けた。
「誰に何と云はれようと、僕の、里子さんを思ふ氣持ちは、純粹なものだ。イエス・キリストか、里子さんか? 違ふ! 二項對立ではない。……主を信ずる事と、私たちの隣り人を愛する事は、二つにして一つ。然り、其は解く能わざる繩目なのだ」
「異端者め!」
 燭臺が目を見開いた。今まで、燭臺に目は無いものと思つてゐた。處が、此の燭臺は、今まで目を瞑つていただけで、目があるのだ。燭臺は、ギョロつとした目で僕を凝視して、更に云つた。
「常田和巳君、君は異端者だ! 背信者だ!」
「否、愛に忠實なだけだ」
 僕は即答したが、七枝の燭臺は僕の言葉を棄却した。
「愛? 愛とは何だ! 主の愛、キリストの愛。其以外は、畢竟は僞物の愛に過ぎないのだ! 常田和巳君。君は、一人の女性に目が眩んだあまりに、キリスト信徒として最も大切なことを忘れて了つたやうだ」
「忘れてなどいない。唯、僕は隣人との交はりを通じて、……」
 と、僕は辯明を強いられた。だが、正直な處を云へば、言葉を繼げば繼ぐほど、僕は自信を失ひ始めてゐた。其と云ふのも、僕は、僕自身の内に巣食ふ、或る不純な氣持ちに氣づき始めてゐたからだ。
 七枝の燭臺は、然樣な僕の内面を忠實に讀み取つた。
「ほらみろ、容易に心が動搖してゐるではないか。君の内心はかうだ。眞田一族の末裔、里子さんと結婚し、社會的なステエタスを得たい。大手を振つて上田の町を歩きたい。美しい妻を trophy として、……」
 燭臺は、目を見開いて、更に云つた。
「美しい妻を trophy として、自分自身の劣等感を拭ひ去りたい。心の中は、其ばつかりぢやないか!」
「莫迦な! もう云ふな!!」
 僕は耳を塞いだ。然樣なわけがない。斷言出來れば好かつたが、否定出來ぬ點もある。僕は、劣等感の塊であつた。帝大卒であり乍ら、文學の道に挫折した。かつての學友は、官僚、大學人、政治指導者に成つてゐるのに、僕はと云へば、生まれ育つた信州上田の地に戻り、壽司にたんぽぽを載せる日々、……其も今では首に成り、親に依存する始末だ。僕は理解してゐた。里子さんを愛する氣持ちに僞りはないものの、其の氣持ちの裏側に、眞田一族の末裔、里子さんと結婚をすれば、自分も階級を上昇出來るのではないかと言ふ不純な動機が存在してゐる事は、否定出來ぬ事實であつた。認めざるを得ない事だ。
 里子さんを愛してゐる。然し同時に、僕は、自分自身を愛すると云ふ、下賤な、邪心に囚われてゐる。其のことを自覺してゐない譯ではなかつた。
「常田和巳君。主は、生きてをられる。全知にして全能の父なる神は、君自身の内心を凡て知悉してをられるのだよ」
 七枝の燭臺は宣告した。神々しいが、やけに大袈裟だ。僕は内心を見透かされた事に動搖しつつも、少しく反撥心を抱かずにはをれなかつた。斯の反撥心でさへもが、僕自身の下賤なる邪心に他ならないと云ふことを自覺すべきであつたが、僕は冷靜さを缺いてゐた。僕の内心は薄汚れてゐる。目の前の七枝の燭臺は、其のことを悉く知つてゐるのだ。僕の知らない處に至るまでを。其の事實が、何とも云へず癪に觸つた。自分のことを自分よりも他人のはうが能く識つてゐると云ふのは、癪に障る事だ。燭臺め、張り倒してやる!
 すると、突然、燭臺は高らかに笑つた。
「ふおつふおつふおつふお、……和巳君。此の私を張り倒すと云ふのか! 私は張り倒せない。何故なら、私は餘りにも偉大だからだ」
「僕を愚弄して何とする!」
「和巳君。君は弄り甲斐のある人間だ。實に無樣な人間」
「帝大卒だぞ!」
 僕は精一杯の虚勢を張つた。斯樣なとき、僕には學歴以外に誇れるものがなかつた。然し、七枝の燭臺は、其を一笑に附した。
「學歴が何だ! 自力で食へもしない無能の分際で!」
 燭臺は、僕の自尊心を直截に削つてくる。僕は怯んだ。すると、更に、燭臺は疉み掛けた。
「帝大は出たけれど、一向に定職に就かず、親の資産に甘へ、女の言ひなりに成つて何時も凡てを棒に振り、數少ない友の忠告には依怙地と成つて聽く耳を持たない。和巳君。君は駄目だ。何の將來の見込みもない」
「莫迦な冗談は辭めろ! 僕は生絲商人だ。歴とした職業がある」
「では、横濱で合成纖維のオカルトに嵌りかけたのは何だ」
「其は、……成り行きの上のことだつたのだ!」
 僕は辯明し乍らも、内心では急所を突かれたと思つた。横濱行きで成果を得られず、あらう事か、僕は、信州の生絲産業に大きな打撃を與へかねない合成纖維に關する研究會に出て了つた。其處で出會つた人脈、……ウサン=クサイ・バアル博士と其の支持者たちは、如何にも信用に値しなかつた。けれども、僕は、其の會合の印象を忘れられない。
 七枝の燭臺は、僕の内心の動搖を的確に讀み取つた。燭臺は云ふ。
「主は、生きてをられる。バアルの權威を打ち毀し、アシェラ像を燒き拂へ」
「其を僕に云はれても、僕は全體如何すれば好いのですか!」
 僕は半ば自暴自棄であつた。生きるのが厭に成つた。誰も彼もが、僕を否定する言葉許り投げかけてくる。僕は帝大卒のエリートなのだ! エリートの僕が、一體如何して、斯樣な身分に落とされねばならないのか! 夢と現の最中で、僕はまたしても自らの状況を憂へた。……偏狹な自己中心性に囚われた自らを!
 七枝の燭臺は、然樣な僕自身の内的動搖を正確に讀み取つた。
「自己愛者! お前は!」
 僕はぎくりとした。自己愛者。其の言葉は、僕の心を射殺すやうに刺さつた。だが、僕は其を不當な決めつけだと思つた。僕は信州上田の爲に、頑張つてゐるのだ。上田の製絲業の爲、地域の賑はひの爲、勿論、最終目的は、里子さんと幸せな結婚をする事だ。
 其は自己愛ではないのか? 自己愛の延長では?
 と、僕の内心の聲が囁く。
「違ふ!」
 僕は叫んだ。目の前が一瞬眞つ暗に成り、次の刹那、僕は誰もゐない草原にゐた。
「里子さんへの愛が、自己愛なものか!! 神と隣人を愛す! 聖書の言葉の實踐だ!」
 其は自己欺瞞ではないのか、と内心の聲が囁く。其は隣人愛か? 唯の利己愛ではないのか、と。
「違ふ! 其は全然違ふ!」
 僕は再び叫んだ。眼前の草原の眺望は、硝子のやうに碎け散つた。
 現れたのは、自分の顏であつた。顏は云つた。
「無樣な奴だ」
 和巳の巨大な顏が、和巳自身をまじまじと見つめて、さう云つた。「無樣な奴め。自分自身の欺瞞に内心氣が附いてゐる癖に」
「だとしたら如何なんだよ!! 僕は是でも頑張つてゐるんだよォ〜〜〜〜!!」
 僕は辯明し乍ら、情けない自己像を自覺してゐた。判つてゐるのだ。僕自身の僞善者であり、無樣な醜態を晒してゐる帝大崩れに過ぎない事を。僕は能く判つてゐる。然し、だとしたら如何なのだ? 僕は、是でも頑張つてゐるのだ!
 すると、風景は再び變はり、僕は空中に街を見下ろしてゐた。──上田の街だ!
 眼下には、平生見慣れた上田の街が廣がつてゐる。そして、日の暮れた通りを歩いてゐる、二人の人影。──片方は、僕だ。里子さんと一緒に、歩いてゐる!
「私アルテイシアにすつかり感情移入して了つたわ!」
 アルテイシアとは、芝居の登場人物の名である。數奇なる運命を辿つたキャスバルとアルテイシアの兄妹が、運命に飜弄せられる、天空の冒險活劇。……さうだ、信州に春が訪れ、二人で出かける事の出來る幸せを滿喫してゐた、あの日の情景を俯瞰してゐるのだ。
「和巳さんと、毎週觀劇に行けたら好いのに」
 と、里子さんが獨り言のやうに云つた。眼下を歩いてゐるもう一人の僕は默つた。返答に窮してゐるのだ。が、やがて、「行けたら好いものだね」と応へた。
「駄目だ!」
 僕は精一杯叫んだ。
「俺! 和巳! 然樣な煮え切らぬ態度では駄目だ! 男を見せろ」
 眼下を歩くもう一人の自分には、僕の聲が屆いてゐるのかどうか。彼は、再び默つてしまつた。里子さんは、一寸伏し目がちに隣りを見て、
「來週は觀劇に行けるかしら?」
 と尋ねた。
 咄嗟に、僕は叫んだ。 「俺! 和巳! 今だ! 即答しろォーー!!」
 だが、眼下を歩くもう一人の和巳は、煮え切らない聲色に「來週は讀書會の豫定が入つてゐる」などと応へてゐる。
 駄目だ! 俺! 和巳! 然樣な態度だからお前は本當に駄目なのだ! 今直ぐに撤囘して、「無論、里子さんとの豫定が最優先だ」と云へ!
 然し、もう一人の自分に、僕の言葉は全然屆かないらしい。優柔不斷な彼の言葉に、里子さんは情緒が不安定に成り出したやうだ。
「和巳さん、」
 と、里子さんは訊ねてゐる。「そんなに、讀書會が御大切なの?」
「濟まない。來週の讀書會は、缺席出來ない」
 眼下の僕は、來週の讀書會が自由教育の據點を上田に置く準備會を兼ねてゐる事、從つて其は信州無教會の將來にとつて重要な會合である事を説明してゐる。理屈としては分かる。けれども、里子さんにとつて、然樣なことは、どれほど重大に感ぜられるであらうか。──自由教育は重要であらう。無教會エクレシアの存續も重要であらう。然し乍ら、里子さん自身は、カトリックの求道者であった。女學生特有の知的好奇心に據るものであれ、カトリック教会の傳統と典禮に歸依する事が、里子さんの基本的な信條に他なるまい。
 僕は精一杯の聲に、眼下の自分、即ちもう一人の和巳に叫んだ。
「俺! 和巳! 理屈許り云ふな! 相手の氣持ちに寄り添へ!」
 然し、もう一人の自分は、賢しげに自説を述べつづけてゐる。──ええい、苛々する。里子さんは然樣な話を聞きたい筈がない。斯うやつて、自分自身の失態を俯瞰で見せ附けられると、自分で自分に苛立つて了ふ。
 過去に、里子さんは、「わたしが無教會に行くのでもよい」と云つて呉れた事があつた。然し、里子さんには、里子さんの信仰がある。其は、是非にも尊重されねばならぬ。其れだのに、眼下に見えるもう一人の自分は、自慢げに自分の話をするばかりで、目の前にいる里子さんの意見を少しも聞こうともしない。何と云う、自己愛的な Personality ! 何を語るにも、自分しか見えていない。僕は愕然とした。其が、僕の実像なのか? 
 すると、上の方から聲が降りてきた。七枝の燭臺の聲であつた。燭臺は、何時の間にか街を覆ひ盡くすほどの大きさに成り、僕を見下ろしてゐる。
「常田和巳君、見なさい。君自身の不甲斐なさを。君は女心も解さぬ癖に、女權擴張を論じてゐる。頭でつかちだ!」
「わかつたから! 何で、過去の僕の失態なんか見せるんだよ! 然樣なもの、見たくないよ!」
「目を逸らさずに現實を見ろ。和巳君、君自身の無樣な現實を! 君は、自分のことを里子さんとの戀の主人公だと思つてゐるかも知れぬが、所詮、然樣な柄ぢやない」と、七枝の燭臺は告げた。見開かれた目は、充血してゐる。狂氣を帶びた目つきであつた。燭臺は、更に續けた。
「君は、主人公の柄ぢやない。所詮、何處にでもゐる夢破れた高等遊民の一人に過ぎない。其なのに、信州上田を代表する家柄のお孃さんと婚約だ? 結婚だ? 愚かしい! 上流階級の女性と結婚する事で、自分自身の情けない境遇を無きものに出來るとでも思つてゐるのか。和巳君、誰と居ようが、君自身の無樣な状況は何一つ變はらないのだ」
「だ・か・ら、然樣なことは、全部了解してゐるのだと云へば!」
「和巳君、目を逸らさずに現實を見ろ」
 七枝の燭臺は、僕を凝と睨みつけて云つた。僕は再び、恐る恐る眼下を見遣つた。……大變だ。里子さんと僕が、何か言ひ爭つてゐる。
「和巳さんのおばかむし!」
「然うですか。よかつたですね。僕が莫迦だとわかつて」
 險惡な空氣が漂つてゐる。だが、をかしい。斯のやうな出來事は、實際には起こらなかつたはずだ。すると、七枝の燭臺は高らかに告げた。
「主は、生きてをられる。主は、時間も、空間も超えて、凡てを支配してをられる」
「莫迦な。斯樣な過去はなかつた!」
「主に不可能はない。常田和巳君。過去は、決して變はらないと思つてゐるか。──見るが好い。自分自身の不甲斐なさによつて、過去が變はる。君は、想像を超えた最惡の結末を迎へる事に成るだらう」
 事實、其のやうに成つた。里子さんと僕は言ひ合つてゐる。
「もう和巳さんなんかしらない!!」 
「然うですか。分かりました」
 眼下の僕は、冷然と言ひ放つた。……駄目だ。俺! 和巳! 然樣な言葉では、里子さんの氣持ちに寄り添ふことが出來てゐない! 直ぐ撤囘しろ。「然樣なこと言はせてごめんな」と云ふんだ!
 ほら見ろ、里子さんは、僕に突き放されたと感じて、恰も歴史の終はりの患難に直面してゐるかのやうな、絶望的な表情をしてゐる。和巳! 俺! 即時、撤囘するんだ。斯う云ふ時は、理屈ぢやない。和巳! 云ふんだ! 「然樣なこと言はせてごめんな」一擇だ! 
 處が、眼下のもう一人の僕は、冷徹な雰圍氣を釀した侭、里子さんの前に經ち續けてゐる。里子さんは、明らかに動搖してゐる。動搖? 是は失望だ。女子の心持ちに寄り添へぬ、和巳の言葉に失望してゐるのだ。そして、事態は、更に良からぬ方向へと動き出した。騒ぎを聞いて、上田市民の皆さんが、夜だと云ふのに僕らの周圍に集まつてきた。僕はいま、其の樣子を俯瞰的に見せつけられてゐる。僕は内心、愕然とした。あの時は、里子さんに夢中で氣が附かなかつたが、斯樣なことに成つてゐたのか? 能く思ひ出せない。一人の女性に夢中に成ると云ふのは、自分自身を客觀視する能力を失ふことと同義だと云ふのか! 動搖する僕の内心を察してか、七枝の燭臺は云つた。
「然うだ。常田和巳君、君は、女性を前にすると、格段に判斷力が鈍る」
「其のことはもう、知つてゐるよ!」
「ならば、何故、周圍の目線にも氣附かずに、里子さんと二人だけの世界に滲つてゐたのだ? 其は、大人として、恥づかしい事ではないのか!」
「だつて、……」
 僕は反論しやうとしたが、適當な言葉が見つからなかつた。其は、其の通りだ。だが、然し、……
「然し、何だ?」
「……ちよ、一寸待つて呉れ!」
 僕は慌てて、少しだけ時間が欲しいと告げた。七枝の燭臺は、凡てを見透かしてゐる。僕の内心の動搖を把握してゐる。然し、如何もしやうがないぢやないか。だつて、僕は里子さんの事が、心底好きなのだ。
 好きなのだから、里子さんと一緒にゐたら、周圍のことは見えなくなる。
 其は、仕方ないぢやないか。
 僕の半生は、錆かけた刀のやうなものだ。帝大に入學し、文學を志すも、終ぞ成果を出す能わず、多くの學友が官僚や政治家、文人に成るのを見送り乍ら、僕は信州上田に歸つてきた。人生の敗殘者として、僕は歸つてきた。
 以後の半生は、虚無の如き時間であつた。理想を失ひ、日々勞務に追はれ、自己の本來性を失つていつた。何のために生まれ、何をして生くべきか。答へなど見出せぬまま、時は過ぎていつた。
 然樣な時に、里子さんと僕は出逢つた。
 塵芥のやうな人生に、再び希望の光を燈して呉れたのは、里子さんだ。だから、僕は里子さんの他に、何の希望の根據も必要ない。里子さんだけが、僕の人生の凡てなのだ。
「莫迦を云へ」
 七枝の燭臺は一笑に附した。
「莫迦とは何だよ」
「和巳君、お前が莫迦だ。もう一度云ふ。君は、女性を前にすると、格段に判斷力が鈍る。折角、帝大を出たと云ふのに、里子さんの言ひなりで、里子さんと、里子さんの家族に振り囘され、何時も恥をかいてゐる」
「然、然樣なことあるもんか」
 恥などかくものか。慥かに、里子さんの我が儘は、結構、度が過ぎてゐる。だが、僕は里子さんの我が儘に振り囘される事を厭だと思はない。其どころか、里子さんの我が儘を叶へるために右往左往する時間は、何かを成し遂げようとしてゐるやうな充實を覺える。假令、誰かの目に徒勞と映つても構はない。僕は、戀愛を恥とせぬ。里子さんの爲に行動する一々の瞬間が、僕にとつてはかけがえのないものなのだ。
「莫迦らしい、實に莫迦らしい」
 燭臺め、未だ云ふか。古めかしい舊約時代の形象よ。お前に何が判るのか。僕はまたしても、目の前の他者を無意識の内に見下す惡癖を繰り返した。相手が、聖典の祭具の似姿をしてゐても、關係なかつた。僕は、惡癖を繰り返した。相手も相手で、僕のことを見下してゐる。
「和巳君、少しは自分を客觀的に見るやうにしたはうが好いぞ」
「僕は是でも自分を客觀的に見る事が出來るんだ! 貴方とは違ふんだ!」
 僕は咄嗟に、然う捲し立てた。事實は逆であつて、僕は里子さんのことと成ると、完全に獨善的な行動をして了ふ。其は、自分でも能く判つてゐる。里子さんが我が儘を云つても、最初こそ嚴しく諌めるが、最後には必ず僕が折れる事に成る。里子さんも、次第に其を學習して了ひ、最初はきつく云はれても最後にはして貰へると思つて、我が儘を云ひ、聞き入れられない場合には癇癪を起こして周圍に言ひふらし、自分に都合よく物事を進めようとする。現に今、眼下の里子さんは、もう一人の僕に八つ當たりを始めた。
「和巳さんの莫迦!!!! 莫迦莫迦莫迦莫迦!!!!」
「然うですか。莫迦で惡かつたですね」
 僕はやつぱり的外れな對応をしてゐる。莫迦! 俺! 違ふだらう。女性に對して、冷靜に對応する許りでは駄目だ。──斯う云ふ時、當世の新しい人間であつたら、お互ひにぎゆつと抱擁して「ごめん」「ごめんね」で濟むのかもしれない。だが、僕たちは日本男子と日本女子であつた。明治の精神を如何しやうもなく繼承してゐた。如何に婚約中の身であつても、人前で、異性の身體に指一本觸れる事など、絶對に許されない! 其のもどかしさが、事態を一層解決困難にしてゐた。倫理道徳は守るべきものだ。然し、倫理道徳は、里子さんの心を守つて呉れない。其の爲に、僕の苛立ちも募つた。
 處へ、七枝の燭臺が口を挾んだ。
「見なさい。男氣もなく、女心も解らない、自分自身の無樣な姿を! 常田和巳君。帝大卒であり乍ら、文學に挫折し、長年定職に就くことなく、親の敷いたレエルが無ければとつくの昔に破滅してゐた、社會主義崩れの生絲商人」
「纏めるな。他人の半生を然樣な單純に纏めるな」
「纏める? ……纏めるも何も、君の半生には、大して意味は無かつたではないか。穀潰しの和巳君。文學志望の學識者なんぞ、畢竟、社會は必要としてゐないのだ」
「だから、今は生絲商人として頑張つてゐる!」
「頑張つても、何時も空囘りではないか!」
 七枝の燭臺は、手嚴しい。然うだ。僕は是迄も頑張つてきたが、何時も成果は無いに等しかつた。空囘り、時には燃え盡き、折角取り組んできた事業を幾つも抛棄した。同人誌の刊行、出版社への賣り込み、全力でやつたが、何時も、何處かで、「自分なんか……」と云ふ弱氣な心が勝つた。其の弱氣の起こる度に、僕は、遣りかけてゐた事業を中途にて抛棄し、投げ出し、自己の向き合ふべき現實から逃避した。良くない事だと云ふことは判つてゐた。其でも、僕は逃避を繰り返し、周圍からの信頼を失つていつた。
「さうだ、君は價値無き塵!」
「だから、今は生絲商人として……!」
 僕は反論しやうとしたが、最早、其の氣持ちも消えさうだつた。さうだ、僕は價値無き屑。學生時代から影が薄く、寮の部屋に引きこもり、交友は著しく少かつた。職業人としては失敗の連續であつた。完くの無力さ加減!
「さうだ、……僕は價値無き屑だ」
「やつと分かつたか。信仰の薄い者よ」
 七枝の燭臺は、勝ち誇つたやうに云つた。僕は、一瞬、燭臺の陰に妖しい氣配を感じた。氣の所爲か、錯覺かも知れぬ。だが、是の舊約の形象に御言葉を愚弄されたやうで、不快であつた。──信仰の薄い者よ? 其は、主ご自身の言葉である。然るに、此の燭臺の形象は何であらう。形だけ見れば、如何にも其らしい舊約の表徴である。だが、語る言葉は如何か? 僕を迷はせようとしてゐるだけのやうな氣がする。
「僕は如何すれば好いんだらうか」
 率直に訊ねてみると、燭臺は、一寸ぎよつとしたやうな目をして、「さうだな」と、眞劍に考へ始めた。良い奴なのか、惡い奴なのか、てんで判らない。暫く考へ込んでゐた燭臺は、
「身近な人をしつかり觀察するところからだな」
 と、月竝みなことを云つた。
「人間の觀察か?」
「さうだな、最初は然樣な處だらう」
 先刻までとは一寸違つて、七枝の燭臺は、俄に好々爺ぢみた雰圍氣を放ち出した。さうか、僕の態度が棘を持つてゐた爲に、相手の態度まで硬直してゐたのか。僕は内省した末、改めて、燭臺に問うた。
「問はう。聖なる祭具よ、里子さんと共に歩むには、如何すべきだらうか?」
「其は、自分の心に聞け」と、燭臺は応へた。「心を盡くし、精神を盡くして、汝の神と隣人を愛せ」
 主の言葉である。のみならず、申命記とレビ記の引用でもあると、僕は識つてゐた。
「聖なる祭具よ。再び問ふ! 神と隣人と、何方が尤も重要であるのか!」
「愚問だな。聖書に全部書いてある」
 七枝の燭臺は、一寸無愛想に成つた。そして、「さあ、完了した」と獨りごちると、姿が見えなくなつた。
「和巳君。もう一度 CHANCE をやろう」
 漸う暗闇に呑まれゆく中、燭臺の聲が空間を響きわたる。CHANCE. 短い語感が、殘響した。そして、僕は再び、里子さんと二人で歩いてゐた。眼下の自己、もう一人の自己 alter ego と入れ替はつた……
「里子さん」
「和巳さん。私と仕事、どつちが御大切なの」
「里子さん、君は僕の生涯の凡てなんだ」
 自分の口から、言葉が流れ出した。然り、其は僕自身の常に思つてゐる事だつた。そして、其の時、僕は初めて里子さんの手を取つた。「里子さん、僕がいけなかつた。是からは心に思ふ通り、里子さんを第一に行動する」
 眞實からの想ひであつた。今まで、逡巡したり、後ろ向きに成つたりして、上手く云へなかつた。だが、僕の願ひは一つだ。里子さんを想ひ、里子さんの爲に生きる。里子さんが望む通りの人生を二人で切り拓く。さうだ!
「里子さん、君を女神と呼ばせてほしい」
「でも、其は……」
「駄目だらうか? 君を僕の目標として、僕は君に生涯を捧げる!」
 と、其の時、空の上から再び、七枝の燭臺が顏を出した。
「ちよちよちよ、和巳君。いきなり距離を縮めすぎだぞ。女の子はもつと纖細なんだぞう」
「わ、わかつたよ……」
 天の窓がさつと閉まり、七枝の燭臺は姿を消した。突然出てきて、突然消えた超常的な存在に、里子さんは吃驚してゐる。
「和巳さん今の何」
「何でもない。里子さん、君は疲れてゐるんだよ。突然變なことを云つてすまなかつた」
 僕も、少し落ち着いた。少々慌てて了つてゐたのだ。實際、此の處、不思議なことが起きすぎる。まるで、漫畫の世界のやうであつた。……宜しい、人生が一篇の漫畫なら、もう一寸面白く、凛々しく振る舞ひたい。
「里子さん、濟まない。今日は家まで送らう。何も心配する事はない」
 
 
 第十一部 筆者の辯明

 里子さんを失つてから、何年も、否、何十年もの歳月を經た。いま、僕が、里子さんとのことを書き遺してゐるのは、第一に、自分自身の氣持ちを整理する爲である。
 例の沼鬼騒動の後、僕は暫くして上田の街を去つた。里子さんとの想ひ出が澤山詰まつた場所に居續ける事は、耐へられなかつた。街の中には、あらゆる場所に、里子さんとの想ひ出の痕跡が遺つてゐる。──上田城の城下町。里子さんのお屋敷から、海野町商店街を經て、蠶絲專門學校まで向かふ道のり。休日に二人で歩いた、松尾町、原町、北國街道の柳町。里子さんが好きだと云ったお店。二人で眺めた街並み。「何時か一緒に登ろう」と約束した、遠くの山々。一緒に観劇した末廣坐。繭倉庫から坂を上ったところにある、里子さんが通う上田カトリック教会。…… 
 僕の心は、あの日から、凍りついた侭であつた。何處にゐても、里子さんとの想ひ出が蘇つてくる。何時か待ち合はせた場所を通ると、里子さんが笑顏で走り寄つてくるやうな氣がする。既に家族のやうに思つてゐた、と云ふより、家族の誰よりも大切に思つてゐた存在が、一瞬のうちに、拉致せられ、命を奪はれた。
 僕の心は、あの日から、凍りついた侭であつた。僕は暫くして上田の街を去つた。里子さんとの想ひ出の凡てが辛かつた。街を歩けば、想ひ出して了ふ。だから、僕は街を離れた。
 最初、僕は縁もゆかりもない九州へ行つた。八幡製鐵所のある重工業の町である。僕は其處で、製絲業を棄て、製鐵勞働者として新しい人生を始めようとした。全ては、里子さんを忘れる爲だつた。
 然し、其の地は、僕の安住の地たり得なかつた。信州上田とまつたく異なる工業都市の喧騒が、僕を不穩にした。社宅の人間關係は苦痛であつた。抑、街の人々の氣質が異なつてゐた。上田の武士階級の間に漂ふ優雅さ、小さな街特有の家族のやうな雰圍氣は、其處には稀薄であつた。勞働者連中の粗暴な言動に、僕は何度も困惑した。信州上田の舊友たちの下劣な振る舞ひのはうが、ましであるやうにも思はれた。無論、是は僕の心象に過ぎない。若しも別なる心持ちで移住してゐれば、小倉や黒嵜の美點を澤山發見したであらうし、勇壯な皿倉山の姿に胸を躍らせたであらう。「里子さんを忘れる爲」と云ふ Negative な Reason が、僕の移住を終始沈欝なものにして了つてゐた。
 次いで、僕は歐州に遊學しやうとした。絹の主要な輸出先である歐州、亞米利加。其れ等のうち、僕の心惹かれたのは歐州であつた。舊大陸の歴史に觸れ、僕は自己を建て直さんと夢想した。最初の結婚に失望した内村鑑三先生の渡米と、動機は似てゐるかも知れぬ。とは云ふものの、是の遊學の動機も亦、其の背後に、不純なるものを含んでゐた。里子さんを忘れる爲、何處か遠くへ行き度い──と云ふ、終始投げやりな氣持ちを含んでゐた。合理的な志望理由と研究計劃を描けぬ侭、海外遊學の道は、中途にて計劃倒れと成つた。
 結局、僕は何處にも馴染めない侭、無名の勞働者としての半生を送つた。或いは、其で好かつたのかも知れぬ。里子さんを亡くした後の人生は、謂はば殘務處理のやうな時間であつた。何の人生の目標もない侭、僕は日ごとの糧を與へられる事に感謝して過ごした。
 最近に成つて、僕が信州上田の街を再び訪ねたのは、老境に入り、里子さんとの思ひ出の場所をもう一度見たいと思へるやうに成つたからだ。
 長い年月が過ぎて行つた。
 里子さんと共に歩む筈であつた僕の人生は、孤獨な勞働者としての日々に終始した。其の間の出來事に就いては、詳かにする必要もない。僕の人生は不毛であつた。
 是迄に僕が書いた内容に就いて、一つ辯明せねばならない。今迄、僕は、自分自身の不毛なる人生に堪へきれず、自嘲する心に依り、自らの記憶を戲作化してゐた。だが、久しぶりに上田の街を訪ねて、少し氣持ちが變はつた。──さうだつた。里子さんと過ごした街は、慥かに、斯う云ふ街であつた。もう少し眞つ直ぐな氣持ちで書いていきたくなつた。
 今までのことは忘れてほしい。此處からが、里子さんと過ごした日々の眞實の記録である。

 
 第十二部 天晴れ大活躍! 大正上田の小松姫
  
 風立ちぬ。──季節は變はつて、今は秋である。そして、今日は主日だ。午前中の聖書集會を終へた僕は、清掃奉仕を休み、横町を拔けて、海野町商店街へと走つてゐた。  今日は、お城の秋祭りの日であつた。是から上田の町中で、いろんな催しが見られる筈だ。
「やあ、やつてゐるな!」
 向かうから、音樂が聞こえてくる。里子さんの女學校の卒業生たちが、商店街で民謠流しを披露する事に成つてゐた。屹度、其の音だ! 僕はずんずんと、商店街をお城方面に進んで云つた。民謠の音が、段々、近附いてきた。
 海野町商店街は、お城の前の大手通に直結してをり、上田の街の中で尤も賑はふ繁華街の一つだ。そして、里子さんと觀劇をした歸り、何時も二人で歩く道でもある。
 詰り、里子さんと僕の大切な場所が、今日は、上田の凡ての人々にとつて特別な空間と成る。
 暫く民謠流しに見入つた後、僕はお城の方向に歩き出した。メソジスト教會の邊りも、すつかり武者行列の準備が進んでゐる。祭囃子が聞こえてきた。もう直ぐ、市役所の前で式典が始まるべき筈である。
 式典では、里子さんのお父さんが、挨拶をなさる。役場の方へ行つてみよう。何やら、樂しげな吹奏樂の演奏が聞こえてきた。人が大勢集まつてゐるのが見える。
 歩きしな、僕は清掃奉仕を休んで了つた事を少し氣にしてゐた。聖書集會は、信仰共同體である。奉仕は自由參加の建前だが、實際は義務であつた。來週、何かお小言を貰ふのに違ひない。──僕は小さな罪惡感を覺えつつも、奉仕に對して前向きに成れぬことには理由がある。即ち、僕は今や、無教會エクレシアの内情に半ば失望を覺え始めてゐたのだ。
「あつ、此の曲は、坐安曇(ZARD)の『負けないで』だ!」
 里子さんは、ZARDの曲が好きなのだ。聽き慣れたメロディが流れてきた途端、先の懸案は僕の腦裏から流れ去つた。
「里子さんと一緒に聽きたかつた」
 今、僕は一人である。里子さんは居ない。居ないのには理由があつた。里子さんは、今日の祭りの主役なのだ。
 是から、役場の前で出陣の儀が執り行はれ、商店街を武者行列が練り歩く。其の後、上田城南側の尼ヶ淵の芝生廣場で、鐵砲隊の演武がある。今年は里子さんが、信州眞田鐵砲隊を指揮するのだ。
 僕が聖書集會を早々拔け出したのは、里子さんの活躍を見る爲だ。
  
 吹奏樂の演奏が終はつた頃、僕は再び、聖書集會の清掃奉仕を休んだことを氣に病み出した。事實上の義務である奉仕を無斷で休んで了つた。唯でさへ、最近は上田の教友の集まりの中で、居心地の惡い思ひをしてゐると云ふのに。
 居心地の惡い思ひと云ふのは、僕の近年カトリックに接近しつつあると云ふ噂が、無教會信徒の間で物議を釀してゐる事實に起因する。のみならず、其が里子さんと同じ教會に通ふ、詰り私情に依る墮落だとの誤解を生ぜしめてゐるのであつた。
 墮落とは、カトリック教會に失禮な表現である。其許りではない。僕には、近來の無教會エクレシアに對して、不審に思ふ點がある。其は使徒信條に關する事だ。本來、無教會は形式を排する。是は好い。だが、形式を排するの餘り、キリスト教會の基本的な原則さへも輕んずるかのやうな物言ひが、時折聞かれた。
 内村鑑三先生が聖書集會の規約に使徒信條を明記しなかつたのは、出席者の内に含まれてゐたユニテリアンや未信徒への配慮であつたと聞く。是は、理解出來る。然し乍ら、今や、無教會の信徒を自稱する者の中から、聖なる普遍の教會への叛抗的言辭が聞こえ始めた。
 僕の耳には、カトリック教會への攻撃は、直ちに異端者の物言ひであつた。
 内村鑑三先生の下に集ふ者の中には、就職の斡旋だとか、結婚の薦めだとか、とかく世俗の利益を求めて先生に接近する者が少くない。彼らは、僕の厭ふべき者だ。彼らは更に、無教會の教勢を擴大する爲とて、組織化を強く主張する事があつた。札幌獨立教會の竹崎八十雄は、其の筆頭である。然し、其のやうな聲は、札幌の竹崎に限らない。「福音の前進と無教會」などと稱して、内村先生の權威を盾に、組織擴張を目論む者。──僕の周圍にも、然う云ふのがゐた。彼らのことを、僕は特に無教會「主我者」と呼ぶ。主義と主我。──無論、是は内村鑑三先生の文章から採つた言葉だ。無教會を主義化ならぬ主我化する一部の連中は、舌の上では壯大な理想を語り乍らも、其の裏に、俗惡な本性を見え隱れさせてゐた。
 内村先生は如何お考へであらうか? 先生の地方傳道の基盤たる教友會は、小規模な信徒の友誼を目的としてゐる。必ずしも、教會組織の如き教勢の擴大を目指してゐないし、まして全國組織化など、先生は考へてゐない筈だ。
 ああ、厭だ。折角のお祭りだのに! 
 役場の前の演壇の上で、偉い人が挨拶をなさつてゐる。里子さんのお父さんも、もうじき出番の筈である。──ああ厭だ。折角の樂しいお祭りなのに、無教會のごたごたに一人で頭を惱ませるとは! 一旦、全部忘れよう。空は、すつかり晴れてゐる。斯う云ふ日に、あれ此れ頭を惱ませるのは莫迦だ。
 此の後は、神事の奉納、太鼓の演奏につづいて、武者行列の出陣式がある。天晴だ。耶蘇信徒の陰氣臭ひごたごたは、一度封印して了はう。──是の日は主日であつたのに、僕の心中には、斯樣な涜神的の言葉が浮かんで來た。好いのだ。今日は里子さんの晴れ舞臺だ。空は、すつかり青く澄みわたつてゐる。斯樣な日は、何もかも忘れて、樂しむべきなのだ。
 役場の前で神事が始まる。信州には、郷土に傳はる宗教儀禮が少なくない。僕も郷土に生きる者として、他宗教に寛容でありたい。イエス・キリストのみを救ひ主と信ずる僕自身の信仰は、其は其であるとして、信州上田の郷土を守る事も亦、僕の使命の一つである。僕自身の持論では、古來、日本人は一神教的な宗教的感性を有してゐた。お天道樣は見てゐる。──民衆の素朴な感情を守るべきだ。
 然うだ。郷土の歴史と傳統、文化を守るべきなのだ。
 ……と、僕の信念を補強してゐる間に、背後から聲をかける者があつた。
「いやう、ハンス王子!」
 其の呼び名には、覺えがある。僕のことをハンス王子などと呼ぶ者は、信州上田の中に一人しかいない。
「其の聲は、我が友、絹次郎であるな?」
「如何にも、然樣だ。君の僕のことを友の一人に數へて呉れてゐようとは、光榮なことだ」
 間違ひない。絹次郎の、聞くだけで神經を苛立たせる低い聲。だが、振り返りつて僕は吃驚した。
「絹次郎、君の恰好は何だ!」
 眼前の絹次郎は、六文錢の赤武者の恰好をして立つてゐる。彼は得意げに笑つた。
「是か? 是は無論、眞田幸村公の costume だ」
「何だつて絹次郎が幸村公に?」
「フッフッフ、……俺は、來年の合戰劇で、主役の坐を狙つてゐるのさ」
 秋祭りでは、例年、一般參加の人々の手で、合戰劇が執り行はれる。城の南側の尼ヶ淵にある芝生廣場で、眞田幸村公の活躍を民衆の演技にて再現するのである。今年は第一次上田合戰の模樣を再現する事に成つてゐる筈だ。
 で、絹次郎は來年の主役を張る爲に、今から衣裝を準備して秋祭りの會場を徘徊してゐると云ふわけか。
「ん、まァ、然樣な處だ」
 絹次郎は、得意げに応へた。自信滿々な樣子は、流石。然し、僕は一寸面白くない。
「莫迦野郎! お前が眞田幸村公なら、僕が徳川家康に成り、史實を改變してでも上田城を攻略してやる!」
「はつは。お前、其は幾らなんでも、藩主に失禮だぞ」
 絹次郎は、藩主、にアクセントを附けて云つた。斯の場合、彼は、藩主家の末裔である里子さんのことを指して、僕を詰つてゐるのである。僕は若干、動搖した。出まかせとは云へ、藩主家を輕んじて了つた。(尚、歴史上の信州上田の藩主は、眞田の後、仙石、そして松平に移つた。何れの藩主も郷土の尊敬を集めてきたとは云へ、上田の民が「藩主」「城主」と呼んだ時に最初に思ひ浮かべるのは、誰よりも先づ、眞田家、──即ち、里子さんのご先祖に外ならない。)
 其にしても、元來、絹次郎はお祭りに入れ込むやうな character であつたらうか。僕は、絹次郎のことを冷徹な男だと許り思つてゐた。武將に成りきつて、愉快さうにしてゐる姿を見て、僕は或いは彼のことを少しも理解してゐなかつたのではなからうかと思つた。僕は、内心、反省した。ひよつとすると、僕は、他者のほんの一側面だけを看て、其の人間の本性を知悉したなどと思ひ込んではゐなかつたらうか。
「おい、何をぼやつとしてるんだよ」と、絹次郎に肩を叩かれた。「ほら和巳君。見給へ。來賓の挨拶が始まつたぞ」
 見遣れば、里子さんのお父さんも登壇なさつてゐる。だが、僕は何だか、其の場に居づらい妙な感じを内面に生じてゐた。絹次郎は、若しかしたら善意で云つて呉れたのかも知れぬ。だとしたら、寧ろ、彼の言葉に根據もなく惡意を見出してゐた僕の方が恥づかしい。
「ほら、和巳君。もつと前で聞き給へ」
 絹次郎は、僕の身體を群衆の前に押し出さうとする。だが、僕は内心に抵抗を覺えた。今は未だ、里子さんのお父さんの挨拶を聞く心の準備が出來てゐない。
「絹ちやん、待つた! 僕は行けないよ」
 僕は思はず、絹次郎のことを古いあだ名で呼んだ。彼がまだ聖公會の信徒だつた頃、輕井澤の基督教青年會で出會つた頃の呼び名で。絹次郎はふつと眞顏に成り、然し、直ぐに何かを察したやうに、「分かつた。後でな」と告げた。遠ざかる絹次郎の姿は、まるで何時もの彼ではない。すつかり六文錢の板についた眞田武士の風格である。
 一體何時の間に、絹次郎は變はつたのか? 僕は不思議に思つた。男子、三日會はざれば刮目して見よと云ふ。女子の強い上田では男子に限らぬが、君子豹變、全體、人は變はるものだ。……其につけても、僕は、段々と自分が厭に成つてきた。自己の内心の意氣地のない領分だとか、いろいろの不足の點だとかが、一度に、氣に成りだしたのであつた。
「ああ、駄目だ駄目だ。他人と較べだしたら、きりがないや」
 僕はつとめて氣持ちを一新した。何せ、今日は秋祭りである。自己嫌惡や、内省的な心境の吐露は、今日は無しだ。──見れば、空は益々晴れ亙つてゐる。處へ、
「さァーー!」
 と、太鼓を打つ女の聲が響いた。好いぞ、好いぞ! 是でこそ、祭りだ。──どどん! 法螺貝の音が低く響き、宛ら合戰の始まりである。信州上田のお祭りの美點は、女子の活躍する機會の多い事だ。餘所の、例へば九州の熊本福岡に成ると、お祭りは男たちの屬で、詰所の前に「女入るべからず」などと立て札がある。だが、上田に然樣な惡習はない。何しろ、信州上田は蠶都と呼ばれ、明治維新以後、帝國日本の養蠶製絲業の中樞を成してゐる。其の爲に、全國の華族士族の優秀な令孃が上田の女學校に集められ、生絲の生産に從事する許りでなく、生絲の輸出が齎した豐富な財政に依り、卓越した教育を受けてゐる。だから、信州上田は女子教育の先進地域なのである。女子教育に限らない。自由教育の萌芽も、差別解放の機運も、千曲川の清き流れに沿ひ、我らの郷土を基盤としてゐる。街を歩けば、女學校の生徒たちが闊歩してゐる。何時の世も、街を活氣づけるのは若者である。此處、信州上田では、女學生たちが街を賑やかしてゐる。海野町にも、原町、柳町にも、商店街には何時でも學校歸りの女學生たちが歩いてゐる。然り、信州上田は女學生の街なのである。其のやうなわけで、上田に女權擴張の機運の高まつてゐるのは、偶然ではない。
 信州上田の秋祭りは、街の主役たる女學生たちの活躍の場なのだ。餘所のお祭りも好いが、上田の祭りは格別だ。元來、祭りは、歴史や傳統を守るだけではない。地域の産業や、民衆の生活の發展と共にある。上田の秋祭りは、蠶都に相応しい、先進的な祝宴である。
 太鼓の演舞が終はると、愈々武者行列の出陣である。僕は、夕方の鐵砲演舞の場所どりは大丈夫だらうかと心配に成つたが、折角の武者行列を最後まで見る事にした。尼ヶ淵の廣場は出店もあり、既に人が一杯だらう。何と成れば、鐵砲は石垣上の櫓から見れば好い。
 再び、法螺貝の音が響く。赤武者の格好をした者共が、役場の前に集まつて來た。
 信州上田の歴史は、上田城、そして眞田三代と共にある。元は上田東北部の眞田地域を本據地とする地方豪族であつた眞田家の系譜は、武田信玄の家臣として活躍した幸隆に始まる。次いで、幸隆の三男昌幸(信綱と昌輝は長篠の戰ひで討死)は、武田の滅亡後、織田、北條、徳川を頼つて領地を守り、天正十一(1583)年に上田城を築いた。
 昌幸に代り藩主と成つた長男信之は、關ヶ原の戰ひに於いて父昌幸や弟信繁と別れ、東軍徳川に從つた。其の十四年後、天下統一を確たるものとしたい家康が、豐臣の據點大阪城に攻め入る。慶長十九(1614)年の冬の陣、次いで慶長二〇(1615)年の夏の陣である。當時の眞田信繁、即ち幸村の活躍に就いては、天下に知らぬ者は一人として無いであらう。徳川方の本陣に迫り、家康を討ち取る一歩手前で死んだ幸村のことを、人は「日本一の兵(つはもの)」と呼び、讃へた。
「眞田家、登壇!」
 司會の者が高らかに宣言する。
 眞田三代に扮した者、──いや、其では夢がないから、斯う云はう。當世に蘇つた眞田三代の強者が、式典の場に登場し、壇上に姿を現した。
 會場には、眞赤な鎧に身を包んだ人々が整然と竝び、今、統治者の復活の儀を目の當たりにしてゐる。主(あるじ)はよみがえられた。信州上田を統べた私たちの主が、今、よみがえられた。
 壇上に武者の裝ひをしてゐる方々は、いづれも信州上田の有力者や、各界で功のあつた者、そして、上田の振興のためにおもてなし部隊として奉獻してゐる人たちである。主君の復活と云つても、決して空想だけのものではない。人々の眞實の想ひがある。
 さうだ。
 民衆は、眞田三代を愛してゐる。信州上田の精神的紐帶は、常に、上田城と眞田三代と共にある。
 其なのに。
 秋祭りは、今まさに、始まろうとしてゐる。其の時にあつて、僕は、平生の後ろ向きな氣持ちに苛まれだした。自己の矮小さを卑下したい自己戲畫化の衝動に苛まれ出した。
 僕は、畢竟、何者にも成る事が出來なかつた。帝大を出ても、文學の道に挫折し、自ら夢想したる處の理想、理念を達成する能わず、今は、一介の生絲商人である。裕福ではあるが、其は僕個人の才能に據るのではない。
 斯樣な自分に、今後、何れだけのことが爲せるであらうか? ──壇上に登つた眞田三代の姿を見て、僕は、改めて卑屈に成つた。僕は家柄も大した事ないし、家柄に附隨する歴史も有たない。先祖のことは能く識らないが、どうせ、江戸時代に成り上がつた平民だ。四民平等とは云つても、天下には階級が儼然と存在する。
 あーいや、違ふ! 然樣な社會を打ち壞すのが、若い世代たる僕らの役割だ。厭だ厭だ、折角、お祭りも盛り上がつて來たと云ふのに、如何して斯うも Negative な Feeling に占據されねばならぬのだらう! 俺の莫迦野郎、忘れろ忘れろ!
「眞田軍、出陣! 鬨の聲!」
 三度、法螺貝の音が響く。壇上の眞田幸村公が、武者行列の開始を宣言した!
 役場の周邊に集まつてゐた會衆が、天をつん裂くやうな聲で呼応した。
 えい、えい、おうーー! えい、えい、おうーー! えい、えい、おうーー!
 好いぞ、好いぞ。是でこそ、祭りだ。
「いざ、出陣を願はうーーーー!」
 司會の男が高らかに宣明する。戰亂の世を救ふ爲、眞田の武將各位が、決意を固めたのだ。武者行列が、是から、海野町と原町、柳町の商店街を練り歩く。赤備の甲冑を着た參加者が退場し、大手通の方へ出て行つた。
 さあ行かう。武者行列を能く見たい。
 人の流れが、海野町の方に動いて行つた。武者行列を最前の列で見る爲には、早めに移動した方が好い。……だが、役場前から退場する赤武者の姿もしつかりと見ておきたい。僕は、斯う云ふ瞬間にも、自分の優柔不斷を自覺した。
 眼前を勇壯な眞田武士たちが通り過ぎて行つた。是でこそ祭りだ。周圍の觀客も昂奮してゐる。
 其の中にあつて、僕は急に、自分一人慘めな心持ちを感じ出した。──僕は駄目だ。信州上田の産業を擔ふには、僕はちつぽけに過ぎる。
 平生、僕は群衆の内にあつて、内心に孤獨を抱へる事が多かつた。學生生活でもさうであつたし、其の傾向は今日でも變はる處が無かつた。殊に、お祭りのやうに周圍の盛り上がつてゐる中で、屢々、何だか自分一人だけが取り殘されるやうな感覺に苛まれるのだ。
 今、信州上田の人々が一つに成り、お祭りを盛り上げてゐる。壇上の人たちだけでなく、街の中の一人ひとりが、此の祝祭的空間の中で主體化せられてゐる。其の最中にあつて、僕は唯一人、孤獨であつた。僕は此處に居てはいけないのではないか?と云ふ疑念が、腦裏に浮かんで了うのだ。
 斯樣な好い天氣、お祭りの日だのに!
 ああ、厭だ厭だ。今日こそは、煩悶青年を卒業だ。徒に流行に乘つて、文學青年と云へば闇雲に煩悶してみる、などと云ふのは、唯の俗情との結託だ。
 里子さんに相応しい男に、僕はなるのだ。
 と、其の時、誰かが僕のおしりを小突いた。
「ぎやあ!」
 周圍の民衆が僕を見た。變な聲が出たからだ。おしりを押さへつつ後ろを見ると、女子薙刀隊の格好をしたかやちやんが、怖い目をして僕を見てゐた。
「か、かやちやん、君も薙刀隊に入つてゐたのか」
「莫迦! 變態!」
 かやちやんは、一方的に然う告げて、大手通の方へすたすたと歩き去つた。──莫迦? 僕自身の莫迦である事は、僕自身が一番承知である。だが、變態? なんで、薙刀で後ろからおしりを突かれて、變態呼ばはりされなければならないんだ? ……待てよ? 僕の内省的で、後ろ向きな樣子を稱して「變態」だと云つたのであらうか。其なら、解るが、敢へておしりを突つつく必要は無いぢやないか。はたまた、以前騒動に成つた「女性差別主義者」の一件に就て、かやちやんは未だ根に持つてゐるのだらうか。
「まつたく、油斷も隙もありはしないな……」
 僕はおしりをさすり乍ら、群衆に從つて歩き始めた。氣を拔いてゐたら、いつ後ろから小突かれるか判らない。世知辛い世の中だ。折角のお祭りなのに!
 
 南蛮お好み焼き屋「ぴざーら」の前を武者行列が進んで行く。
 兔も角だ、今日はお祭りだ。Negative で Bad な Feeling は今後絶對に Good Bye だ。今日はお祭りを樂しむのだ。其の爲に、聖書集會の清掃奉仕を無斷で休んでまで、武者行列を見に來たのだから。
 武者行列の先頭は、メソジスト教會の邊りらしい。僕は一寸愉快に成つた。──眞田幸村一行の行列が、基督教會から出陣する。此奴は好いや。最高の構圖だ。
 街の人たちにとつて、眞田幸村公の存在は、特別なのだ。其は、キリスト者にとつての天使や聖人に匹敵すると云つて好い。街にとつての崇敬の對象なのである。
 内村鑑三先生が上田を訪れたときも、上田城内の明倫堂に宿泊した事を「眞田幸村公に代はつて城を守つた」と上機嫌であつたと聞く。内村先生の上田來訪は、明治三十二年四月の中村坐講演以來、翌年、翌々年と續いた。特に、明倫堂や上田メソジスト教會での聖書講義は盛況だつたやうで、先生は信州上田の氣風を氣に入つたらしい。其の時のことは、成澤玲川先生から詳しく聞いた事がある。内村先生は、信州移住説も囁かれるほど、此の地で熱心に傳道をなさつた。特に先生の愛した土地は、上田であつたらう。内村先生の講演はたびたび上田で開催され、數々の逸話が遺つてゐる。何時か、成澤先生が内村先生を案内して馬場町のあたりを歩いてゐた時に、二匹の犬が喧嘩してゐるのを見かけて、咄嗟に内村先生が小石を投じ、小犬を掩護したと云ふ。如何にも内村先生らしい逸話である。難しい性格ではあるが、先生が各地の人々の尊敬を集めてゐたのは、然う云ふ人間らしい一面にも理由がある。
 内村鑑三先生が講演したメソジスト教會から、眞田幸村一行の武者行列が出陣する。其から、午後には内村先生が宿泊した上田城でも、催しがある。今日は好い日だ。天晴だ。
 だが、僕はお祭りの中心で、最大級の憂欝に苛まれた。──みんなお祭りを樂しんでゐる。とつても幸せさうだ。其なのに、僕のやうな人間の塵が紛れ込んでゐたら、臺無しぢやないだらうか。
 僕は、常々、生まれてきた事を後悔してゐた。帝大を出て、何者にもなれなかつた僕が混ざつてゐると、折角のお祭りが駄目に成らないだらうか。みんなの幸せな時間が腐らないだらうか。
 斯う云ふ感情に支配され出すと、僕は、自分がとても醜い化け物みたいに感じる。人前に出てはいけない、けがれた化け物。嗚呼、僕は駄目だ!
 駄目だ! 如何しても、Negative な Feeling を eject 出來ない!
 と、其の時である。突然、後ろから小突かれた。
「……痛!」
 今度は誰だ。僕は毎度のやうに、街の人全員の僕を殺さうとして附け狙つてゐるのではないかと云ふ妄想に苛まれ始めた。
「何ですか」
「通行の邪魔だ! どけ!」
「あつ……す……すいませんでした……」
 交通整理のお兄さんだつた。ああ、僕は駄目だ。居るだけで、お祭りの邪魔に成つて了う。そして、大聲で何か咎められると「あつ……」「あつ……」しか云へなくなつて了う。お祭りを堪能したい氣持ちが、急速に萎んできた。「通行の邪魔だ! どけ!」と云ふ、先刻の交通整理のお兄さんの聲が、延々と、腦内に聞こえ出した。斯うなると、とことん陰欝な氣持ちが大きくなる。──駄目だ、歸りたい。僕には、お祭りを樂しむ資格がない。
 と、其の時である。復、後ろから小突かれた。
「ひいつ! ……す、すみません!」
「如何した、ハンス王子?」
 な、何だ、絹次郎か。吃驚した。先刻別れた絹次郎が、何時の間にか僕の背後に居た。小諸も一緒だ。小諸は、甲賀流忍者の格好をしてゐる。
「やあ、似合つてるな!」
 と、聲をかけたら、小諸が嬉しさうに、「ありがたうございまする!」と、一寸忍者つぽい(?)言葉で応へた。
 見馴れた顏を見つけて、僕も多少は心の安息を見出だした。元來、お祭りのやうに人の多い場所が苦手なのである。
「王子、尼ヶ淵に行かんのか? あつちはもう、觀客で一杯だ」
 赤備への絹次郎が云ふ。僕は、彼の言葉の眞意を掴み損ねて、
「いや、まづは武者行列が觀たい」
 と、曖昧に返答した。
 大手通の人々は、海野町の方へ流れていく。當然、武者行列を觀る爲だ。尼ヶ淵に行くならば、人流に逆行して、お城の方へ向かふことに成る。だが、演目の順序としては、武者行列が先だ。みんな其方へ流れていく。
「お城の方も人が多いのか?」
 と、僕は問うた。どうやら、絹次郎と小諸は、一囘お城に行つて、見て來たらしい。紅葉の季節を迎へたお城はすつかり賑はつてゐて、食べ物の出店がたくさん出てをり、紅葉と食物が目當ての人たちはみな、朝からお城へ行つてゐる。……と云ふのが、小諸の情報である。
「和巳の旦那! 信州名物五平餠いかがつすか!」
「いや、僕はいいよ……」
 小諸は、今日も食意地が張つてゐる。無論、お祭りなのだから、食ひ意地は張つてナンボのものだ。聞けば、小諸は既に朝から竝んで、信州そばを三杯と、五平餠を二つ、其れから、おやきを十個平らげたらしい。然も、更に食べる積りだ。たいした胃袋である。
 今度は絹次郎が云ふ。
「時に王子、武者行列も好いが、こつちに居ると、鐵砲演武が見れなくなるぞ」
「然樣なに多いのか、觀客が」
「さうだ、然樣なに多いのだ。結構なことだが」
 此の時、僕は漸く、絹次郎が親切心から助言して呉れてゐる事を理解した。──早く行かないと、里子さんの晴れ舞臺を見損ねて了うかも知れない。
 だが、何かが僕の心をかたくなにしたので、僕は友人の助言を突つ撥ねた。
「何、折角の祭りだ。僕は武者行列が見たいんだ。お城の方には後から行けば好いさ。豫定表の通りなんだから」
 僕の惡癖は、他人からの忠告を其の儘受け入れず、屡々反對の行動を取らせた。子供の頃からの依怙地の氣質が、さうさせるのであつた。今日も、絹次郎は善意から云つて呉れたのであらう。其なのに、僕は彼の言葉を聞き入れなかつた。
 絹次郎は、一瞬、何か云ひたさうな顏をした。だが、すぐに顏色を變へて、
「まあ好い。終はつたら、すぐに城へ行けよ」
 と告げ、小諸と一緒に立ち去つた。
 
 二人の姿の消えた後、僕は思案した。──何だか、迚も厭な氣持ちだ。折角、お祭りの日に、晴れ晴れとした心に成つてゐたのに! だが、此の厭な氣持ちの原因は、絹次郎ではない。小諸でもない。他人の言葉を其の儘受け入れられぬ、自分自身の頑迷さだつた。
 判つてゐるのだ! 僕は。
 自分自身の、如何に、駄目人間かと云ふことを!
 僕は衝動的に、大手通から一本入つた小さな道に逃れた。元來、人の多い場所が苦手なのである。人の多い場所に行くと、動悸が止まらず、呼吸が苦しくなる。子供の頃は特にさうであつたが、今日も、其の發作が出た。
 落ち着くまで、人の少ない場所に居よう。
 呼吸を整へるのに、やや時間を要した。大手通の方からは、觀衆の賑やかな聲が漏れ傳はつてくる。──僕は苦手なのだ。人の多い場所が。元來、僕にはお祭りなど不釣り合ひだ。
 半ば自棄に成るやうな氣持ちに成りかけたものの、自分の周圍を冷靜に見囘すと、其處は、何時も里子さんと二人で歩いてゐる通りに違ひなかつた。
 さうだ。今日は、秋祭りの賑はひで人の流れが違つてゐるのと、役場の方角から歩いてきたので、氣が附かなかつた。何時もの道だ。
 里子さんのことを思ひ出して、僕は急に元氣を取り戻した。砂漠を流離う旅人のオアシスを發見した時のやうに、掌に掬ひ上げた水を一口に飮み干したやうに。
 ──さうだ、今日は里子さんの晴れ舞臺を見にきたのだ。斯樣なことをしてゐられない!
 元氣を取り戻した僕は、大手通りの方へ戻らうとした。
 一寸だけ振り返り、通りの向かうを見遣つた。改革教會の方へ續く通りを右に折れると、里子さんの御屋敷がある。歩き慣れた道である。僕は、里子さんとの記憶を思ひ出し、ますます元氣に成つた。解りやすい性質だ。僕の光源は、里子さんを措いて他にないのだ。
 大手通は、愈々賑はひを増してゐる。見れば、馬上の赤備へ一行は、既に海野町商店街の方へ進みつつある。天晴だ。結構だ。
 僕は、心中に何か滿足を覺え、今はお城へ向かふことにした。觀衆は多い。武者行列は、みんなが見て呉れよう。僕は里子さんの處へ。
 此の時、僕は小さなタアニング・ポイントを越える寸前であつた。自己自身の Negative な感情に呑み込まれ、何もかも全部駄目に成つて了えば好いと云ふ破滅的な世界觀に侵されつつあつた。其處から救ひ出して呉れたのが、里子さんであつた。里子さんの晴れ舞臺を見たいと云ふ一心が、僕を精神的沼地から掬ひ上げた。
 直ぐに、お城へ行かう。尼ヶ淵へ。里子さんの處へ、いの一番に行くべきだ。
 思へば、里子さんは自分の演目の爲に、殆どお祭りを觀る事が出來ないのだ。日曜日の御ミサも、今朝は行けなかつたらう。里子さんが、毎週日曜日の御ミサを、殊に、聖體拜領をどれほど大切にしてゐるか、そして、今日の秋祭りの演舞に出演する爲、御ミサをお休みした里子さんの覺悟がどれほどのものか、無教會の信徒である僕には、想像する事が難しかつた。里子さんにとつて、今日は、命よりも大切なものを賭けた一日なのだ。
 お祭りを樂しんでゐる場合ではなかつた。早く、里子さんの応援に行かう。
 豫定表を見ると、里子さんが指揮を執る鐵砲演舞の時間までは、まだ少し時間がある。だが、早く會場へ行き、場所取りをしておかう。
 大囘りだが、祝町大通りから行く。そつちの方が人が少ない。走つていく! 通りに出れば、尼ヶ淵まで一直線だ。
 
 しまつた。もう人で一杯だ。
 尼ヶ淵一帶は、出店に群がる客で溢れ却つてゐる。てつきり、みんな武者行列を見るものと思つてゐたが、矢張り、みんな食べ物が好いのだ。
 まあ好い。僕の目當ては鐵砲演舞だ。里子さんが指揮を執る信州眞田鐵砲隊を見るのだ。
 だが、僕の見込は甘かつた。鐵砲隊を見る觀客も亦、既に場所取りをして了つてゐた。人垣が、出來上がつてゐる。容易に前に出られよう筈も無かつた。此では、里子さんの晴れ舞臺を最前列で見ると云ふ、僕の願望は達成すべくもない。
「此は、弱つたな……」
 里子さんには、必ず觀に行くと約束をしてゐる。出來る事なら、最前列で觀てあげたい。だが、人をかき分けて前に出るわけにも行くまい。
 僕は其の時、午前中の無教會の聖書講義に出た事を少し悔やんだ。實は、今朝は擔當者の感話が長引き、豫定よりも遲く講義が終了した。講義の會場は、僕の住んでゐる家の近く、──現在、蠶種協業組合の事務棟に成つてゐる邊りである。今朝は、其處から小走りに走り、役場の方まで來たのだつた。若しあの時、尼ヶ淵に直行してゐたら?
 いや、好いのだ。僕は直ぐに考へ直した。觀に來たと云ふ慥かな事實が重要だ。人より前で觀る事は、重要では無い。
 僕は其の時、一瞬だけ無教會の信徒のことを心に恨んだことを反省した。仕方がない。信徒たちはお祭りに出ないのだから。彼らにとつて、お城の宮仕すら、俗事、地上の出來事なのだ。何だつて、お祭りに行かうとする信徒の居るのにもかかはらず、壇上に一人法悦に滲るやうな長たらしい説教をするのか、と思つてしまひもする。が、彼らにとつて、自分達の集會の外部は、畢竟、汚れた世界なのだ。無教會には、グノーシス的世界觀が見え隱れする。
 僕は最早、無教會エクレシアに對する愛着も、執着をも失つて了つた自分自身を發見した。──さうだ。僕には、里子さんに對する、そして、里子さんを媒介として、聖なる普遍の教會に對する引力が、強く働いてゐたのだ。
 大丈夫。人垣の向かうからでも好い。自分の目にしつかりと燒き附けよう。觀に來たと云ふ、慥かな事實が重要なのだ。
 と、其の前に腹ごしらえだ。早めに來て好かつた。出店が隨分澤山出てゐる。使徒パウロも亦、コリントスの大祭の出店に使ふテントを作り、糊口を凌いだと云ふ話がある。信州上田を象徴する、今日はお城の秋祭りである。盛況なのは、大いに結構。此から、里子さんが指揮する鐵砲隊の演舞が始まる。なるべく澤山の人に見て欲しい。里子さんの活躍は、僕自身の誇るべきことに外ならないのだから。
 信州名物五平餠、信州そば、おやき。……お祭りである。食ひ意地は張つてナンボのものだ。
 と、出店の出てゐる一角に、何やら人だかりが。あれは何だ? 鬼か、妖怪か?! ……いや、違つた。ご當地を盛り上げる、林檎の精だ。是は好いや。里子さんは、可愛いものが大好きだ。後で、話題にしよう。
 僕は、出店の食べ物を目で物色し乍ら、心の内に里子さんのこと許り考へ出した。僕は、何時もさうである。里子さんのこと以外、殆ど一切、外界の出來事に關心がないのだ。先刻まで、彼是と不毛な思ひ惱みをしてゐた事もすつかり忘れ、今や、僕の腦内は、里子さんのことで一杯に成りだした。──お祭りの主役を畢へ、最初に僕の前に歸つてきた里子さんが見せるであらう笑顏、其の後交はす言葉までをも、僕は心の内に豫行演習した。早く里子さんに會ひたい。其の前に、早く演舞を見たい。里子さんの活躍は、僕自身の歡びに外ならないのだから。僕は五平餠を口に含み乍ら、今後のお祭りの盛り上がりを想像した。
 其の氣持ちの裏には、一點の邪念もない。然り、上流家庭のお孃さんとの結婚によつて自分の格が上がるだとか、お祭りの歡聲を浴びて自分も氣持ち好くなるだとか、然樣なことは、……
 邪念だらけだ。
 だが、其が如何した。
 里子さんとの結婚が、僕の人生の凡てであつた。今日のお祭りは、其の前祝ひだと思へば好いのだ。──平生の内向的で、自問自答しがちな性癖が、今日も出てゐる。僕はお祭りをしつかり見ぬうちに、里子さんと自分自身の、都合の良い物語を創作し出した。何日か、内村鑑三先生に「幕藩時代の戲作の方が未だマシだな」と窘められた、在り來たりな幸せのストーリーを。
 其が、如何した。里子さんとの結婚が、僕の人生の凡てなのだ。
 僕は、或る個人的問題に固執した處から、依怙地に成つてゐた。本統は其處に無教會エクレシア内部に於ける躓きが介在してをり、其のことが話をややこしくしてゐる。だが、今の僕は、然樣なことに意識を向けたくなかつた。里子さんがお祭りに出るのだ。今日は、特別の日曜日である。聖書集會は午前中に濟んだ。嫌なことは、さつさと忘れる事だ。今からは、里子さんのこと、お城のお祭りのことだけに意識を集中して了おう。
 さうと決めたら、先づは飯だ。……其にしても、早く來すぎて了つた。最前で見る事は叶はぬし、席を取つておく意味もない。とすると、演舞の開始までは、まだまだ時間がある。暫くの間、出店を冷やかして來よう。パウロだつて憤慨し乍ら、コリントの大祭を見て廻つたに違ひないのだ。
 
 (途中省略) 
 
 やあ、隨分待つた氣がするが、そろそろ鐵砲演舞の始まる時刻だ。幸ひに、と云ふべきか、屋臺の食事が目當ての人たちが歸つたのか、先刻よりは人が減つてゐる。折角の演舞を見ないのか、と不服だつたが、僕にとつては、里子さんの晴れ舞臺を見るのに好都合だ。
 出來る事なら、鐵砲隊を間近で見たい。僕は、尼ヶ淵を西側に向かつて歩き出した。廣場の中央には本部があり、其の邊りは、若干、人が多い。そして、鐵砲隊は其の邊りで構へるらしい。人垣の切れてゐる處を探し乍ら、僕は、右往左往しつつ周圍を見てゐた。
 觀客の中には、大人もゐれば、子供もゐる。迫力ある鐵砲演舞は、子供の目にもさぞかし愉快だらう。僕は、成る可く他の觀客の邪魔に成らぬやうにし乍ら、其でも出來る限り、前の方に進んで行つた。幸ひに、木陰から鐵砲隊の姿が見える處に出る事が出來た。
 どれどれ、里子さんの晴れ舞臺はまだだらうか。樣子を見てゐると、どうも最初は紀州九度山眞田鐵砲隊、次いで、岐阜大垣城鐵砲隊が先陣するらしい。信州眞田鐵砲隊は、最後を飾るのだ。
「禮!」
 と云ふ掛け聲と共に、鐵砲隊が準備を始める。心のうちに、信州隊は未だか未だか、と云ふ氣持ちが湧いてくるが、先づは、先陣の紀州九度山鐵砲隊だ。樂しみは、最後に取つておく方が善いのだ。
 人垣の後ろから、鐵砲隊の樣子を伺ふ。ふと見上げると、石垣の上の櫓から、此方を見下ろしてゐる觀客もゐる。なかなか賢いな。戰國の樣子を俯瞰的に眺めるのは、さぞ好からう。僕は懸命に背伸びをして、何とか前の樣子を見ようとした。
 と、指揮者が號令をかける。すると、火繩銃が一齊に音をたてた!  陣太鼓の音、觀衆は沸き上がる。
 小さい子供が泣いてゐるらしい。好い好い、鐵砲の音は怖からう。僕なんか、小學生の時に鐵砲演舞を見て、其の場で小便を漏らしてしまつた。小學校でも笑ひの種であつたし、中學に上がつても、「あいつが信州上田の小便野郎か……」と陰口を云はれたものだ。
 鐵砲隊は、次の準備に掛かつてゐる。火繩銃は、銃口から彈を込める。其の爲に、發砲の準備に時間がかかるのだが、是は、舊式の鐵砲の宿命である。無論、觀客は、彈込めの樣子を固唾を飮んで見守つてゐる。戊辰戰爭以來、鐵砲なんて見る機會はさうさう無いし、舊式の鐵砲を使ふ手順、一連の動きが、最早珍らしい。今時、若しも市街地に、鐵砲だとか刀だとかを持ち歩いてゐる人間がゐたら、其奴は、新政府に敵對する勢力に外なるまい。詰り、今は平和の時である。歐州の大戰とて、クリスマス迄には休戰するだらうし。
 次は、ひざ放ち、つるべ撃ちである。指揮者の「放て」と云ふ號令と共に、隊列の銃口が、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、……と、順番に音をたてた。陣太鼓の音、觀衆は再び沸き上がる。


二〇二四(令和六)年四月一〇日執筆箇所迄
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